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社長業を極めるためのカリキュラムについて、「日本的経営のリニューアル」という視点から紹介します
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2009年12月25日(金)更新
剛毅木訥
●私は昔から、パーティーなどの集まりが好きではありません。立食が嫌いというのもありますが、そもそも、一度にたくさんの人と交わることが苦手だからです。しかし、「パーティーが嫌いなら、大規模な宴会も苦手なのか」というと、そんなことはありません。むしろ(大)宴会は得意としています。そこで、パーティーと宴会でなにが違うのかについて考えてみました。
●「論語」の一節に、「巧言令色少なし仁」という言葉があります。これは、言葉や外見などうわべを美しく飾っても、心が全然伴っていないことを指します。お互いドレッシーに着飾ったパーティーで、ワインやスコッチを片手に交わす会話の多くは、「巧言令色」なものになりやすいのです。
●パーティーのように優雅で社交的な雰囲気のなかでは、文房具屋で売っているノートや、モーター音がうるさくなったノートパソコンを開いて仕事の話をするのは、少し憚られます。どうしてもメモをとりたい状況になっても、せいぜい携帯電話やiPhoneなどで走り書きする程度でしょう。
●しかも、パーティー会場にはお目当てのセレブや著名な社長、人気作家などがゴロゴロいます。パーティー参加者の本当の目的はそうした人たちと交流をもつことであり、いま目の前で話している人を幕間つなぎのような存在として扱いがちです。
私がパーティーを苦手とする理由は、そうした本音を互いにしまいこんだまま交わす会話こそ、「巧言令色」の最たるものだと思っているからです。
●一方の(大)宴会について考えてみましょう。一泊や二泊で温泉旅館に行き、湯上がりに浴衣を着て、運ばれる会席料理に舌鼓を打ちながら言葉を交わします。
こうした宴会では、「終電が・・」「カミさんが・・」「娘がインフルで・・」などの、途中で抜けだすための言い訳が一切通用しません。そうして肚が据わって飲むうちに酔いが回り、本音で語り合う交流ができます。
もっとも、宴会にはセレブも著名人も来ないという難点がありますが、本音の交流をするのにそんなものは必要ありません。
●論語では、そうした本音の交流を、「剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁(じん)に近し」と言っています。剛毅とは何ごとにも屈しない精神を意味し、木訥は話し下手なことをいいます。つまり、「剛毅木訥であることは、それ自体が仁(じん)、つまり、人を思いやる心の持ち主に近い」という意味です。
●どうやら、古代中国では訥弁であることが、そのまま人徳につながっていたようです。日本でも、無口で話し下手であることは、昔ならば決して欠点ではありませんでした。しかし、いつのまにか訥弁は不器用を意味するようになってしまいました。
グローバル化の影響もあり、コミュニケーション技術を上げることが必須になってきたからかもしれません。
●ここでおまけにもうひとつ。おなじく孔子の言葉で、次のようなものがあります。
「君子は言(ことば)に訥(とつ)にして、行いに敏(びん)ならんと欲す」
「君子たる者は、口が重くて訥弁でもいいが、実践においては敏速でありたい」という意味です。つまり、「言葉の軽い者は訥を志して慎み、実践の遅い者は敏をもってみずからを励ますべし」、という孔子の教えです。
●「巧言令色」「剛毅木訥」「行いに敏」
忘年会と新年会に臨むときは、これらの言葉を胸に秘めて交流をはかりましょう。
●「論語」の一節に、「巧言令色少なし仁」という言葉があります。これは、言葉や外見などうわべを美しく飾っても、心が全然伴っていないことを指します。お互いドレッシーに着飾ったパーティーで、ワインやスコッチを片手に交わす会話の多くは、「巧言令色」なものになりやすいのです。
●パーティーのように優雅で社交的な雰囲気のなかでは、文房具屋で売っているノートや、モーター音がうるさくなったノートパソコンを開いて仕事の話をするのは、少し憚られます。どうしてもメモをとりたい状況になっても、せいぜい携帯電話やiPhoneなどで走り書きする程度でしょう。
●しかも、パーティー会場にはお目当てのセレブや著名な社長、人気作家などがゴロゴロいます。パーティー参加者の本当の目的はそうした人たちと交流をもつことであり、いま目の前で話している人を幕間つなぎのような存在として扱いがちです。
私がパーティーを苦手とする理由は、そうした本音を互いにしまいこんだまま交わす会話こそ、「巧言令色」の最たるものだと思っているからです。
●一方の(大)宴会について考えてみましょう。一泊や二泊で温泉旅館に行き、湯上がりに浴衣を着て、運ばれる会席料理に舌鼓を打ちながら言葉を交わします。
こうした宴会では、「終電が・・」「カミさんが・・」「娘がインフルで・・」などの、途中で抜けだすための言い訳が一切通用しません。そうして肚が据わって飲むうちに酔いが回り、本音で語り合う交流ができます。
もっとも、宴会にはセレブも著名人も来ないという難点がありますが、本音の交流をするのにそんなものは必要ありません。
●論語では、そうした本音の交流を、「剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁(じん)に近し」と言っています。剛毅とは何ごとにも屈しない精神を意味し、木訥は話し下手なことをいいます。つまり、「剛毅木訥であることは、それ自体が仁(じん)、つまり、人を思いやる心の持ち主に近い」という意味です。
●どうやら、古代中国では訥弁であることが、そのまま人徳につながっていたようです。日本でも、無口で話し下手であることは、昔ならば決して欠点ではありませんでした。しかし、いつのまにか訥弁は不器用を意味するようになってしまいました。
グローバル化の影響もあり、コミュニケーション技術を上げることが必須になってきたからかもしれません。
●ここでおまけにもうひとつ。おなじく孔子の言葉で、次のようなものがあります。
「君子は言(ことば)に訥(とつ)にして、行いに敏(びん)ならんと欲す」
「君子たる者は、口が重くて訥弁でもいいが、実践においては敏速でありたい」という意味です。つまり、「言葉の軽い者は訥を志して慎み、実践の遅い者は敏をもってみずからを励ますべし」、という孔子の教えです。
●「巧言令色」「剛毅木訥」「行いに敏」
忘年会と新年会に臨むときは、これらの言葉を胸に秘めて交流をはかりましょう。