ブログ個人トップ | 経営者会報 (社長ブログ)
社長業を極めるためのカリキュラムについて、「日本的経営のリニューアル」という視点から紹介します
- トップページ
- ブログ個人トップ
前ページ
次ページ
2010年06月18日(金)更新
ある牧師の祈り
●数年前のことですが、中国の上海から杭州まで白タク(無許可営業のタクシー)に乗ったことがあります。ワンボックスカーに総革張りのシートで、ほとんど新車でした。私を呼び止めた営業の中年女性は片言の英語を話しましたが、彼女自身は車に乗り込みませんでした。運転手は中国語しか話せない中国人男性でお客は私ひとり。本当に杭州へ連れて行ってくれるのか心配になりました。
●お金を節約するためにこんなハラハラドキドキするなんて馬鹿だったと後悔しましたが、車は猛スピードでどこかへ向かっています。また、そんなときに限って道路案内標識がなかなか現われません。ますます不安が募り、私は心のなかで「神様、お助け下さい」と祈る気持ちになりました。
●すると5分もしないうちに急に眠くなり、ウトウトしはじめました。
そのウトウトの瞬間、不思議なことに20年前に聞いたキリスト教の牧師のメッセージが思い出されました。
その牧師は、まだかけ出しの頃とても貧しかったそうです。信者からの献金や献品で辛うじて糊口をしのいでいましたが、布教活動するための自転車がありませんでした。徒歩による宣教活動だけでは限界があります。そこで牧師は神に祈りました。
「神さま、あなたの栄光を表すために私は自転車を必要としています。どうか、自転車を私にさずけて下さい。アーメン!」
●一ヶ月たち、二ヶ月たち、とうとう半年が経過しました。それなのにいっこうに自転車が手に入りません。その牧師は神様に確認する意味もこめて、こう祈ったそうです。
「神さま、私は全時間をあなたに捧げています。でも自転車がなくて毎日の活動はとても不自由を感じています。もし、御心にかなうならば一日でも早く自転車を私に授けてください。それとも、私の活動は御心にかなわないのでしょうか?」
●すると、そのときは神から返答が来たそうです。
「あなたの祈りは毎日聞いている。あなたの願いをかなえてあげたいとそのたびに思う。だが、いつもあなたは"自転車が欲しい"としか言わない。私はどんな自転車をそなたに授けてよいのか分からないのだ。もっと具体的に祈ってくれ」
●牧師は「そうかぁ、しまった。私が浅はかだった」と反省し、祈り直しました。
「色は銀色で、サドルは黒。それに大きめの買い物かごがついていて・・・」
自転車の色や形、大きさ、カゴの色とか荷台の形状、ハンドルのデザインなど、具体的にして祈ったのでした。
●翌日、教会清掃のボランティアの婦人が乗ってきた自転車をみて牧師はビックリしました。祈ったとおりの自転車がそこにあり、思わず「アッ」と声が出てしまったといいます。
しかもそのボランティア婦人は、牧師にむかってこう切り出したのです。
「先生、これは先月自分で買ったばかりの自転車なのですが、最近主人が私の誕生祝いにスクーターを買ってくれましたの。不要になってしまったのですが、もしよろしかったら、先生が役立ててくれませんか?」
牧師は絶叫しました。 「ハレルヤー!!」 と。
●祈りは具体的にしないといけないよ、という牧師のメッセージでした。
20年前のその説教が、なぜか中国の高速道路で思い出されたのです。
目が覚めた私は「そうだ、目的地をもっと具体的にしよう」と思い、ふたたび運転手の彼に目的地を書いた紙を手渡しました。
「杭州站」(杭州駅)
すると彼は、
「明白了」(ミンパイラ、「分かりました」)と言ってくれました。
かなり時間はかかりましたが、そのやりとり以降は不安も消えて、純粋に窓外の景色を楽しみました。
●白タクには二度と乗りたくありませんが、期待を明確にするという癖はその珍事以降さらに強まったように思います。
●お金を節約するためにこんなハラハラドキドキするなんて馬鹿だったと後悔しましたが、車は猛スピードでどこかへ向かっています。また、そんなときに限って道路案内標識がなかなか現われません。ますます不安が募り、私は心のなかで「神様、お助け下さい」と祈る気持ちになりました。
●すると5分もしないうちに急に眠くなり、ウトウトしはじめました。
そのウトウトの瞬間、不思議なことに20年前に聞いたキリスト教の牧師のメッセージが思い出されました。
その牧師は、まだかけ出しの頃とても貧しかったそうです。信者からの献金や献品で辛うじて糊口をしのいでいましたが、布教活動するための自転車がありませんでした。徒歩による宣教活動だけでは限界があります。そこで牧師は神に祈りました。
「神さま、あなたの栄光を表すために私は自転車を必要としています。どうか、自転車を私にさずけて下さい。アーメン!」
●一ヶ月たち、二ヶ月たち、とうとう半年が経過しました。それなのにいっこうに自転車が手に入りません。その牧師は神様に確認する意味もこめて、こう祈ったそうです。
「神さま、私は全時間をあなたに捧げています。でも自転車がなくて毎日の活動はとても不自由を感じています。もし、御心にかなうならば一日でも早く自転車を私に授けてください。それとも、私の活動は御心にかなわないのでしょうか?」
●すると、そのときは神から返答が来たそうです。
「あなたの祈りは毎日聞いている。あなたの願いをかなえてあげたいとそのたびに思う。だが、いつもあなたは"自転車が欲しい"としか言わない。私はどんな自転車をそなたに授けてよいのか分からないのだ。もっと具体的に祈ってくれ」
●牧師は「そうかぁ、しまった。私が浅はかだった」と反省し、祈り直しました。
「色は銀色で、サドルは黒。それに大きめの買い物かごがついていて・・・」
自転車の色や形、大きさ、カゴの色とか荷台の形状、ハンドルのデザインなど、具体的にして祈ったのでした。
●翌日、教会清掃のボランティアの婦人が乗ってきた自転車をみて牧師はビックリしました。祈ったとおりの自転車がそこにあり、思わず「アッ」と声が出てしまったといいます。
しかもそのボランティア婦人は、牧師にむかってこう切り出したのです。
「先生、これは先月自分で買ったばかりの自転車なのですが、最近主人が私の誕生祝いにスクーターを買ってくれましたの。不要になってしまったのですが、もしよろしかったら、先生が役立ててくれませんか?」
牧師は絶叫しました。 「ハレルヤー!!」 と。
●祈りは具体的にしないといけないよ、という牧師のメッセージでした。
20年前のその説教が、なぜか中国の高速道路で思い出されたのです。
目が覚めた私は「そうだ、目的地をもっと具体的にしよう」と思い、ふたたび運転手の彼に目的地を書いた紙を手渡しました。
「杭州站」(杭州駅)
すると彼は、
「明白了」(ミンパイラ、「分かりました」)と言ってくれました。
かなり時間はかかりましたが、そのやりとり以降は不安も消えて、純粋に窓外の景色を楽しみました。
●白タクには二度と乗りたくありませんが、期待を明確にするという癖はその珍事以降さらに強まったように思います。
2010年06月11日(金)更新
藤樹先生
●「人の第一の目的とすべきは生活を正すことである」という言葉に接した11才の中江藤樹(なかえとうじゅ)少年は、思わずこう叫びました。「このような本があるとは。天に感謝する」「聖人たらんとして成りえないことがあろうか!」と、感極まって泣いたという少年藤樹。それだけでなく、この日の感動を終生忘れることなく、「聖人たらん」という大志を抱き続けたというから、何たるすごい人物でしょう。
●藤樹は、1608年生まれ。江戸時代が始まって5年後の生まれで、侍は武芸に励むのが常識とされた時代にあって、学者・教育者の道を歩みます。
のちに「日本の陽明学の祖」、「近江聖人」と言われるにいたるきっかけは幼少時の読書にありました。
●藤樹少年は単なる早熟な子供ではありませんでした。その後の成長ぶりがまたすさまじいのです。
そのあたりを物語る逸話として、内村鑑三著『代表的日本人』にあるエピソードからご紹介しましょう。
●脱藩して親孝行した藤樹
27才のとき、生家の母への孝養を名目に帰国を願い出るが許されず脱藩。藩主よりも母に尽くす道を選ぶにあたっては、相当悩んだようで家老に次のような手紙を書いています。
「二つの道のいずれをとるべきか、心の中で慎重にはかりました。主君は、私のような家来なら手当を出すことで、だれでも召し抱えることができます。しかし、私の老母は、こんな私以外にはだれも頼る者がいないのでございます。」
●母のもとにあって藤樹は心安らかではありましたが、母を慰めるものはなにもなかったといいます。家に帰り着いたとき藤樹がもっていたお金は百文でした。
(武沢註:4,000文が一両、一両が8万円とすると、藤樹が持っていた百文とは今の価値でわずか2,000円となります)
●その金で少しの酒を仕入れ、みずから行商人となってそれを売り歩いてわずかな日銭を手にしたといいます。また、「武士の魂」といわれた刀まで売って銀10枚を手にし、その金を村人に貸してわずかな利子でつつましく生計を維持したというから涙ぐましいですね。
しかも藤樹の金貸しは高利貸しではなく、人助けの低利貸しだったと言いますから「聖人たらん」という志の実践者といえましょう。
●翌年28才になって江戸時代の最初の私塾ともいわれる学校を開設しています。真の学者とはどういう人かと聞かれて藤樹はこう答えています。
「“学者”とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。」
●学者とは学識がある人ではなく徳がある人のことである、とは、まさしく卓見です。
学識経験者や学校エリートが国や行政を動かしていてはうまくいきません。藤樹が言う
"学者"が政治や経済のリーダーになる世の中を作りたいものです。
●ちょうど日本の政治も新しいリーダーを担いだばかり。
今の政治家の中に藤樹先生が認める"学者"が果たして何人いるか、ということです。それを嘆くだけなら誰でもできますが、自らが学者たらんと決心し、行動することの方が大切であることは言うまでもありません。
●藤樹は、1608年生まれ。江戸時代が始まって5年後の生まれで、侍は武芸に励むのが常識とされた時代にあって、学者・教育者の道を歩みます。
のちに「日本の陽明学の祖」、「近江聖人」と言われるにいたるきっかけは幼少時の読書にありました。
●藤樹少年は単なる早熟な子供ではありませんでした。その後の成長ぶりがまたすさまじいのです。
そのあたりを物語る逸話として、内村鑑三著『代表的日本人』にあるエピソードからご紹介しましょう。
●脱藩して親孝行した藤樹
27才のとき、生家の母への孝養を名目に帰国を願い出るが許されず脱藩。藩主よりも母に尽くす道を選ぶにあたっては、相当悩んだようで家老に次のような手紙を書いています。
「二つの道のいずれをとるべきか、心の中で慎重にはかりました。主君は、私のような家来なら手当を出すことで、だれでも召し抱えることができます。しかし、私の老母は、こんな私以外にはだれも頼る者がいないのでございます。」
●母のもとにあって藤樹は心安らかではありましたが、母を慰めるものはなにもなかったといいます。家に帰り着いたとき藤樹がもっていたお金は百文でした。
(武沢註:4,000文が一両、一両が8万円とすると、藤樹が持っていた百文とは今の価値でわずか2,000円となります)
●その金で少しの酒を仕入れ、みずから行商人となってそれを売り歩いてわずかな日銭を手にしたといいます。また、「武士の魂」といわれた刀まで売って銀10枚を手にし、その金を村人に貸してわずかな利子でつつましく生計を維持したというから涙ぐましいですね。
しかも藤樹の金貸しは高利貸しではなく、人助けの低利貸しだったと言いますから「聖人たらん」という志の実践者といえましょう。
●翌年28才になって江戸時代の最初の私塾ともいわれる学校を開設しています。真の学者とはどういう人かと聞かれて藤樹はこう答えています。
「“学者”とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。」
●学者とは学識がある人ではなく徳がある人のことである、とは、まさしく卓見です。
学識経験者や学校エリートが国や行政を動かしていてはうまくいきません。藤樹が言う
"学者"が政治や経済のリーダーになる世の中を作りたいものです。
●ちょうど日本の政治も新しいリーダーを担いだばかり。
今の政治家の中に藤樹先生が認める"学者"が果たして何人いるか、ということです。それを嘆くだけなら誰でもできますが、自らが学者たらんと決心し、行動することの方が大切であることは言うまでもありません。
2010年06月04日(金)更新
修羅場をくぐる
●ある日の未明のこと、ふとんの中で苦しくなって目が覚めたS社長(55才)は、次の瞬間、「ウッ」とうなり声をだし、胸を押さえました。心臓の異変だとすぐにわかりました。家族が近くで寝ていたのですが助けを呼ぶことができないもどかしさ。
●救急車で運び込まれたのは循環器系では日本有数の病院でした。しかも当直医が循環器の医師でした。適切な処置がすぐになされたため、初日のヤマは越えました。ですが予断を許しませんでした。
●その後、実に12日間にわたって昏睡状態が続きました。その間、妻や長男が病院に呼ばれ、海外に留学していた次男も緊急帰国しました。
集中治療室の照明のまわりに蝶々がとんでいます。
ぼんやりとした意識の中で、「へぇ、最近の病院は顧客満足のためにこんなサービスもはじめたんだ」と思いました。幻覚をみながらそんなことを考えるのがS社長らしいところです。
●12日後、意識が戻ったとき看護士さんがベッド脇で歓声をあげました。
「あ!生きてる、奇跡だ」
かけつけた担当医までもが、
「よく助かったなぁ」
と言っています。
そんな会話が聞こえるということは、どうやら助かったらしいのです。
●話したいことがある、聞きたいことがある、ですが、すぐには会話ができませんでした。家族や医師と会話するための文字板を押そうとしても目的の文字を指せず、自分の親指ばかりを押しています。筋肉が弱っていて反応してくれないのです。
●「床ずれ」もひどい。皮膚の表面はカサカサに乾燥し、ベッドで足をトンとさせただけでそこから出血します。
人間の体って、食べることと運動することで維持できていたことを今さらながらに思い知りました。
●翌月になってS社長は退院し、長男の結婚式にも間に合いました。
本当に奇跡的な生還と退院でした。その病院で一年に一度使うことがあるかどうか、といわれる人口心肺機をつかいましたが、この装置をつかって退院できる人は少ないらしいのです。
●見舞いに訪れた私に向かってS社長はこうつぶやきました。
「たけちゃん、もう10年前になるかなぁ、あなたに言われて新卒の学生を採用しはじめたが、今、彼らが居てくれるから会社は支障なくやれている。彼らとかみさんのおかげだ。今ごろになって感謝しているようじゃ遅いけどね、ハハ。ぼくは信仰心は薄いほうだが、今回の件では、自分が助かったというよりは、何かに助けられたとしか思えないんだ。この命のつかいみちがまだあるのだぞ、と教えられた気分だよ」
●大好きな酒もゴルフもやれなくなったS社長ですが、生きるということの価値と重みを実感する毎日が始まっています。
修羅場をくぐった人は強い。
経営者を大きくさせる要素に、倒産(の危機)、入獄(の危機)、死(の危機)の三つがあると言われています。
闇から出てきて光のありがたさを知ったS社長の新たな経営者人生がスタートしたのです。
●以前から読書好きなS社長でしたが、今回の出来事があってから読書量は10倍になったそうです。
私がプレンゼントした吉川英治の『三国志』(講談社文庫)全八巻もわずか二日で読んでしまうのですから、以前より集中力が増したのかもしれません。
●救急車で運び込まれたのは循環器系では日本有数の病院でした。しかも当直医が循環器の医師でした。適切な処置がすぐになされたため、初日のヤマは越えました。ですが予断を許しませんでした。
●その後、実に12日間にわたって昏睡状態が続きました。その間、妻や長男が病院に呼ばれ、海外に留学していた次男も緊急帰国しました。
集中治療室の照明のまわりに蝶々がとんでいます。
ぼんやりとした意識の中で、「へぇ、最近の病院は顧客満足のためにこんなサービスもはじめたんだ」と思いました。幻覚をみながらそんなことを考えるのがS社長らしいところです。
●12日後、意識が戻ったとき看護士さんがベッド脇で歓声をあげました。
「あ!生きてる、奇跡だ」
かけつけた担当医までもが、
「よく助かったなぁ」
と言っています。
そんな会話が聞こえるということは、どうやら助かったらしいのです。
●話したいことがある、聞きたいことがある、ですが、すぐには会話ができませんでした。家族や医師と会話するための文字板を押そうとしても目的の文字を指せず、自分の親指ばかりを押しています。筋肉が弱っていて反応してくれないのです。
●「床ずれ」もひどい。皮膚の表面はカサカサに乾燥し、ベッドで足をトンとさせただけでそこから出血します。
人間の体って、食べることと運動することで維持できていたことを今さらながらに思い知りました。
●翌月になってS社長は退院し、長男の結婚式にも間に合いました。
本当に奇跡的な生還と退院でした。その病院で一年に一度使うことがあるかどうか、といわれる人口心肺機をつかいましたが、この装置をつかって退院できる人は少ないらしいのです。
●見舞いに訪れた私に向かってS社長はこうつぶやきました。
「たけちゃん、もう10年前になるかなぁ、あなたに言われて新卒の学生を採用しはじめたが、今、彼らが居てくれるから会社は支障なくやれている。彼らとかみさんのおかげだ。今ごろになって感謝しているようじゃ遅いけどね、ハハ。ぼくは信仰心は薄いほうだが、今回の件では、自分が助かったというよりは、何かに助けられたとしか思えないんだ。この命のつかいみちがまだあるのだぞ、と教えられた気分だよ」
●大好きな酒もゴルフもやれなくなったS社長ですが、生きるということの価値と重みを実感する毎日が始まっています。
修羅場をくぐった人は強い。
経営者を大きくさせる要素に、倒産(の危機)、入獄(の危機)、死(の危機)の三つがあると言われています。
闇から出てきて光のありがたさを知ったS社長の新たな経営者人生がスタートしたのです。
●以前から読書好きなS社長でしたが、今回の出来事があってから読書量は10倍になったそうです。
私がプレンゼントした吉川英治の『三国志』(講談社文庫)全八巻もわずか二日で読んでしまうのですから、以前より集中力が増したのかもしれません。
2010年05月28日(金)更新
知恵のみを追う
●「少年よ大志を抱け」
小さい志ではなくて、大きな志をもつことをクラーク博士は説きました。クラークさんに言われるまでもなく、日本でも江戸時代の儒学者・貝原益軒は次のように述べています。
「志を立つるは大にして高きを欲し、小にして低きを欲せず」
●洋の東西を問わず、先人たちは後輩にむかって「大きな志を持て」と教えるのはなぜでしょうか?
それは困難なことだからです。むしろ、けがれの少ない若者こそ大志は抱けるが、大人や老人になるとだんだんそれができにくくなるのかもしれません。
●ルソーにいたっては、人間の欲望はいつまでたっても肉欲だと次のように皮肉っています。
「十歳にしては菓子に動かされ、二十歳にしては恋人に、三十歳にしては快楽に、四十歳にしては野心に、五十歳にしては貪欲に動かされる。いつになったら、人はただ知恵のみを追うて進むのであろう」
●大きい志とは、"業界初"とか、"日本一"とか、"世界一" などの相対的なものであってはならないでしょう。ライバルが失敗すれば自社が得するような目標や志であってはうまくいきません。
ルソーが言う「知恵」のみを追う生き方をしたいものです。知識ではなく知恵を求める行為には合格もなければ終わりもないのです。
●会社経営にとっての「知恵」とは何でしょうか?
最近は品質問題で叩かれ、社長自ら米国の公聴会によばれたトヨタ。途中、きびしく追及される場面もありましたが、委員長自ら「あなたが自分から進んで来たという事実に私が感銘を受けたということを知ってほしい」と述べ、日本の自動車メーカーのトップに敬意を払いました。
企業の責任を負うためには真実を明らかにせねばならない。そのためならば、世界中どこへでも出かけていくという経営者の姿勢が功を奏したようです。
●そのトヨタから国民の大衆車の定番・カローラが出たのはまだ40年ほど前のこと。当時のトヨタは、収益でも財務でも人材でもノウハウでもとても世界の自動車メーカーと太刀打ちできるほどの会社ではありませんでした。
その後、半世紀にも満たない年月で世界有数の企業になった原因は、会社全体が知恵を求めたからではないでしょうか。野心でも貪欲でもなく知恵を求めたから、カイゼンがくり返され、世界屈指の自動車メーカーになったのだと思います。
●企業にとって知恵を追う生き方とは、経営理念や経営哲学を追求する生き方であり、それが、業績面にも直結してくることを社員に教えるのが経営者の大切な仕事なのです。
業績や結果ではなく、知恵を求めましょう!
小さい志ではなくて、大きな志をもつことをクラーク博士は説きました。クラークさんに言われるまでもなく、日本でも江戸時代の儒学者・貝原益軒は次のように述べています。
「志を立つるは大にして高きを欲し、小にして低きを欲せず」
●洋の東西を問わず、先人たちは後輩にむかって「大きな志を持て」と教えるのはなぜでしょうか?
それは困難なことだからです。むしろ、けがれの少ない若者こそ大志は抱けるが、大人や老人になるとだんだんそれができにくくなるのかもしれません。
●ルソーにいたっては、人間の欲望はいつまでたっても肉欲だと次のように皮肉っています。
「十歳にしては菓子に動かされ、二十歳にしては恋人に、三十歳にしては快楽に、四十歳にしては野心に、五十歳にしては貪欲に動かされる。いつになったら、人はただ知恵のみを追うて進むのであろう」
●大きい志とは、"業界初"とか、"日本一"とか、"世界一" などの相対的なものであってはならないでしょう。ライバルが失敗すれば自社が得するような目標や志であってはうまくいきません。
ルソーが言う「知恵」のみを追う生き方をしたいものです。知識ではなく知恵を求める行為には合格もなければ終わりもないのです。
●会社経営にとっての「知恵」とは何でしょうか?
最近は品質問題で叩かれ、社長自ら米国の公聴会によばれたトヨタ。途中、きびしく追及される場面もありましたが、委員長自ら「あなたが自分から進んで来たという事実に私が感銘を受けたということを知ってほしい」と述べ、日本の自動車メーカーのトップに敬意を払いました。
企業の責任を負うためには真実を明らかにせねばならない。そのためならば、世界中どこへでも出かけていくという経営者の姿勢が功を奏したようです。
●そのトヨタから国民の大衆車の定番・カローラが出たのはまだ40年ほど前のこと。当時のトヨタは、収益でも財務でも人材でもノウハウでもとても世界の自動車メーカーと太刀打ちできるほどの会社ではありませんでした。
その後、半世紀にも満たない年月で世界有数の企業になった原因は、会社全体が知恵を求めたからではないでしょうか。野心でも貪欲でもなく知恵を求めたから、カイゼンがくり返され、世界屈指の自動車メーカーになったのだと思います。
●企業にとって知恵を追う生き方とは、経営理念や経営哲学を追求する生き方であり、それが、業績面にも直結してくることを社員に教えるのが経営者の大切な仕事なのです。
業績や結果ではなく、知恵を求めましょう!
2010年05月21日(金)更新
家康の強運
●徳川家康は三方原(静岡県浜松市の北部)の合戦(1753年)で武田信玄に大敗を喫しました。野球で言えばコールドゲーム、ボクシングならタオルが投げられるほどの完敗です。
なにしろ相手が悪い。川中島で上杉謙信と幾たびも交戦し、戦上手この上ない日本を代表する屈強武田軍団なのですから。
とにかく家康は馬上で脱糞しながらも、ほうほうの体で逃げ伸びました。
●家臣にも笑われるほどの惨めな姿で城に戻った若き家康は、そのあとが立派でした。この敗戦を教訓にするため、自分のみじめな姿を絵師に描かせているのです。トップとして、なかなかできることではありません。
★家康敗戦の絵 http://www.hamamatsu-navi.jp/shiro/history/002.html
●この敗戦が忘れられぬ家康は、後々になっても「負けを知らない人はよろしくない。私の場合、三方原で・・・」というようなことを周囲に語っています。
余談ながら、家康はこの敗戦でかえって有名になります。天下の“赤具足”武田軍団に真っ向から立ち向かった若武者がいると全国にその名を轟かせるわけですが、家康という男はこのころから強運の持ち主だったのでしょう。
●さて、「運」といえば先日、数人で居酒屋に行きました。その中にいた初対面の20代後半とおぼしき男性ビジネスマンが私に向かってこう言いました。
「武沢さんって、経営の秘訣をメルマガに書いてるの? へぇ、どんなこと書いてるの? オレが思うに、経営者ってまず運が大切だと思うの。こう見えてオレも相当なツキ男。だって付き合ってるやつら、みんな明るくて幸せそうだし、自分的にもまずまずハッピーだし。ま、不運そうなやつが寄って来たらこっちから逃げるけどね、ハハハ。この前も失敗している同級生から電話がかかってきたけど居留守使っちゃったもの。たしか、松下幸之助さんも運の良い人と付き合えみたいなこと、言ってるじゃん」
●残念ながら、この人は運というものについて表面的な理解しかしていないように思います。まずは、そのタメグチを改めることが大切でしょう。
ともかく、負けや失敗を周囲から排除するから運がよくなるのではない、と私は思うのです。どれだけ沢山の失敗や挫折、それに不遇というものを知っていたり、体験しているかということが、人間の深みにつながるのではいでしょうか。
●成功しか知らない人(そんな人はいないと思いますが)や、成功することしか興味がない人(こういう人は多い)は、他人の感情や心の痛みが理解できなくなりがちです。そういう経営者では良い会社は作れないと思います。
●哲学者ヴィトゲンシュタインは、「人間の偉大さを測る尺度は、その仕事に支払った犠牲の多寡である」と述べています。この言葉を引用しつつ、評論家の森本哲郎氏はこう語っています。「犠牲を支払えばだれでも後悔するだろう。しかし、その後悔が偉大さを生むのだ。だから、私のモットーは宮本武蔵とは逆である。『我、事において、常に後悔す』」。
●家康の大敗戦に学ぶように、私たちも負け、失敗、犠牲、後悔、不運、不遇といったものを避けるのではなく、それらの上に成功や偉大さが成り立っていると考えみてはどうでしょうか。
なにしろ相手が悪い。川中島で上杉謙信と幾たびも交戦し、戦上手この上ない日本を代表する屈強武田軍団なのですから。
とにかく家康は馬上で脱糞しながらも、ほうほうの体で逃げ伸びました。
●家臣にも笑われるほどの惨めな姿で城に戻った若き家康は、そのあとが立派でした。この敗戦を教訓にするため、自分のみじめな姿を絵師に描かせているのです。トップとして、なかなかできることではありません。
★家康敗戦の絵 http://www.hamamatsu-navi.jp/shiro/history/002.html
●この敗戦が忘れられぬ家康は、後々になっても「負けを知らない人はよろしくない。私の場合、三方原で・・・」というようなことを周囲に語っています。
余談ながら、家康はこの敗戦でかえって有名になります。天下の“赤具足”武田軍団に真っ向から立ち向かった若武者がいると全国にその名を轟かせるわけですが、家康という男はこのころから強運の持ち主だったのでしょう。
●さて、「運」といえば先日、数人で居酒屋に行きました。その中にいた初対面の20代後半とおぼしき男性ビジネスマンが私に向かってこう言いました。
「武沢さんって、経営の秘訣をメルマガに書いてるの? へぇ、どんなこと書いてるの? オレが思うに、経営者ってまず運が大切だと思うの。こう見えてオレも相当なツキ男。だって付き合ってるやつら、みんな明るくて幸せそうだし、自分的にもまずまずハッピーだし。ま、不運そうなやつが寄って来たらこっちから逃げるけどね、ハハハ。この前も失敗している同級生から電話がかかってきたけど居留守使っちゃったもの。たしか、松下幸之助さんも運の良い人と付き合えみたいなこと、言ってるじゃん」
●残念ながら、この人は運というものについて表面的な理解しかしていないように思います。まずは、そのタメグチを改めることが大切でしょう。
ともかく、負けや失敗を周囲から排除するから運がよくなるのではない、と私は思うのです。どれだけ沢山の失敗や挫折、それに不遇というものを知っていたり、体験しているかということが、人間の深みにつながるのではいでしょうか。
●成功しか知らない人(そんな人はいないと思いますが)や、成功することしか興味がない人(こういう人は多い)は、他人の感情や心の痛みが理解できなくなりがちです。そういう経営者では良い会社は作れないと思います。
●哲学者ヴィトゲンシュタインは、「人間の偉大さを測る尺度は、その仕事に支払った犠牲の多寡である」と述べています。この言葉を引用しつつ、評論家の森本哲郎氏はこう語っています。「犠牲を支払えばだれでも後悔するだろう。しかし、その後悔が偉大さを生むのだ。だから、私のモットーは宮本武蔵とは逆である。『我、事において、常に後悔す』」。
●家康の大敗戦に学ぶように、私たちも負け、失敗、犠牲、後悔、不運、不遇といったものを避けるのではなく、それらの上に成功や偉大さが成り立っていると考えみてはどうでしょうか。
«前へ | 次へ» |