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2006年08月18日(金)更新

乗り物を替えよう

●数年前に、32%を超える視聴率を記録したTBS系のテレビドラマ「百年の物語」(松嶋菜々子主演)が話題になりました。私もすべて見ましたが、わずか百年(3世代)の間で、これほどにまでに時代(特に女性の立場)が大きく変わるものか、とビックリした記憶があります。

●さて、前号の続きです。

●昭和20年代の後半から30年代の後半までの約10年間は、百貨店を除くと、「業種店」全盛の時代でした。「業種店」とは、取り扱い製品によって○○屋と呼ぶことができる商売の形態をさします。たとえば、肉を売るのが肉屋、魚は魚屋、呉服は呉服屋、金物は金物屋。至極わかりやすいビジネス形態です。

●流通経路は、メーカー→商社→一次問屋→二次問屋→小売店→消費者という感じで、川上から川下へモノが流れ、情報も流れていきました。立場的には、川上が圧倒的に強い時代でもあったわけです。

●ところが昭和40年代に急成長したスーパーは、○○屋というジャンルで商売を特定することはできません。なぜなら肉売り場もあれば洋服売り場もあり、運動具も靴も売っている。それこそ、何でも揃っている。しかも、都心にある百貨店と違い、郊外の駐車場付き店舗が中心で、接客もなければ過剰包装もなく、価格が安いのです。

●このように、顧客サイドに立って新しい事業形態をつくりあげた店舗のことを「業態店」といいます。業態店は、業種店のもっていた前近代的な要素をすべて否定し、近代的かつ科学的な小売業へと変身をとげたわけです。この業界にとって、昭和30年代後半からの約20年間は、業種店から業態店へと脱皮するための変質期であり、経営者たちはこぞってアメリカへモデル探しにも出掛けました。
●そして平成時代の今日、○○屋というような「業種店」で成長をとげている企業は、一部の例外を除いてほとんど存在しなくなりました。地方の旧商店街で、家業として生き残っているか、日本中に知れ渡る老舗店舗になって勝ち抜いたかのいずれかです。

●もはや、業種店は業態店に変態しない限り、企業としての成長が見込めない時代になってしまったのです。

●さらに今では、業態店のなかでもごく一部の企業しか成長できない経営環境になってきました。これは、小売業だけに起きている現象ではありません。建設業でも製造業でも飲食業でも旅行業でも全く同じ現象がおきています。あらゆる業界で例外なく、新しい業態作りが求められているのです。顧客や市場の視点から事業の枠組みを作り直すことが、急務なのだといえましょう。

●一つの業態が成長を維持できる年数は限られています。私たちが、徒歩、自転車、そしてクルマへと乗り物を替えてきたように、業態も陳腐化する前に替えていかなければなりません。あなたの会社が飛躍できるかどうかは、新しい業態を開発できるかどうかにかかっている、といっても過言ではないでしょう。

2006年08月11日(金)更新

イノベーション

●日本で最初に創られた株式会社は、坂本竜馬の「亀山社中」だといわれています。その後、明治に入り渋沢栄一らによって日本の資本主義の原型ができあがっていくわけですが、商業だけに限ってみれば、歴史は更にそれ以前にまでさかのぼります。

資本主義発展の歴史をみてみると、おおきなうねりの中で事業の栄枯盛衰が手に取るようによくわかります

●たとえば、私が子供のころ(昭和30年代半ば)には、母親たちの買い物は今と全然ちがっていました。買い物かごを手にもって、子供の手を引きながら近くの八百屋、魚屋、肉屋、乾物屋、金物屋などを転々としたものです。しかも冷蔵庫が十分に普及しておらず、買いだめはできません。当然家事は専業主婦でないとつとまらないほど多忙を極めたはずです。

●この当時、八百屋や乾物屋などを営む人たちにとって、誠実な商いを毎日つづけることこそ「企業努力」でした。自動車やバイクがないので、おのずと商圏はとても狭い範囲に限定されました。

●顧客の大半は地元のリピーターです。完全な地域密着商売です。ご近所とのつきあいを大切にし、常連客の家族構成を記憶しておくことや、気持ちのよい接客をすることなどで信用を築いていきました。いずれにせよ、きわめて緩やかな競争環境でもあったのです。

●それからわずか10年、電化製品や自動車の急速な普及により、主婦たちの家事労働は大幅に軽減され、おりからの経済発展も手伝って買い物の目的や方法が劇的に変わりはじめました。郊外に駐車場付きのスーパーが誕生し、食品も衣料品も玩具も文具もすべてが一カ所でまかなうことができる、主婦にとって、たいへん便利な時代が到来しました。

●このような時代の変化を見抜き、地方の小さな小売店にすぎなかったダイエー、イトーヨーカドー、ジャスコ、ユニー、ニチイなどが全国展開し、続々と株式公開を果たします。ちょうど、今のIT関連企業の公開ラッシュと似ています

●さて、この話の本質は何か?
●イノベーション(革新)の重要性です。自らすすんで過去の成功体験を捨てた所が勝ち組になったのです。ダイエー(薬局)もジャスコ(呉服屋)もヨーカドー(衣料品)もユニー(薬剤店・ふとん屋)も、地方小売店として当時からある程度の成功をおさめていました。にもかかわらず、過去と訣別する決意をし、店舗の総合化や大型化を一気にすすめたわけです。
同時に経営の近代化にも着手。商いの精神にサイエンスを導入し、より大きなビジョンに向かって合併する企業も相次ぎました。

●国内の商店街の大半は、こうしたイノベーション組によって大打撃を受けました。そもそもこうした時代の変化が、我が商店にどのような影響をあたえるのかに気づいていなかった所も多いのです。怠慢ゆえに時代を読み誤った会社は淘汰されていきました

●また、「変わらなきゃ」とばかり努力する会社でも、イノベーションに成功できなかった会社がたくさんありました。イノベーション(革新)を成功させるためには、変革の目的が必要です。何をめざして変わるのかという大義名分や名目が必要なのです。
先に実名をあげた企業には、その大義名分が備わっていたのです。

それは・・・、 <続きは次号で>

2006年08月07日(月)更新

経営者の情熱

●「うちも若返りが必要だから3年以内に息子へのバトンタッチを考えている」という経営者にお会いしました。聞くと、まだ52歳だそうです。息子の年令がではなく、その社長が52歳なのです。

●まだこれから円熟するはずの経営者が、早くも世代交代を考えるには、積極的な理由による場合と消極的なそれとがあります。積極的な理由とは、後継者に任せた方が経営はうまくいくと信じていて、ご自分も他にやりたいことがある場合。消極的な理由とは、「疲れた」とか「飽きた」という社長自身の情熱喪失です。

●ここで問題にしたいのは、消極的な理由です。

●引退するときは誰にでもやってきます。その瞬間まで、社長は社内でだれよりも熱い情熱の持ち主であってほしい。にもかかわらず、情熱喪失に陥るのはなぜでしょうか? 

●先行きが読めないとか、勘が働かなくなったとか、肉体が衰えたとか、いかようにも理由は見つかるでしょう。しかし、そうした表向きの理由の裏にあるもの、それは「夢」がなくなっているということではないでしょうか。夢がなくなると気力も衰えるのです。

●若手ベンチャー社長がマスコミにもてはやされ、20代や30代で成功するケースを多く接するようになりました。大橋巨泉流ライフスタイルにあこがれる経営者も多いそうです。

●そうした、周囲の成功者から学ぶことはあっても自分自身と対比する必要はありません。「彼らに比べて自分は今まで何をやってきたんだろうか」とか、「オレの出番はもう終わったのか」などと思うのは早計の至りです。老け込むにはあまりに若すぎます。

●日本初の地図制作者として有名な伊能忠敬は、養子先の家業再建のために50歳まの時を費やしました。人生50年時代の50歳だから、今でいえば70歳を超えていた感覚です。その後、彼は20歳も年下の若い天文学者の門を叩きました。そして測量術を学び、幕府の許可を得て地図制作を開始したのです。

●それから73年間の生涯を閉じるまで忠敬は日本中をくまなく歩き、彼の没後4年目に弟子たちが跡を継いで、ついに日本地図を完成させました。

●米国のマクドナルドハンバーガー創業者のレイ・クロック氏も、50代半ばまで、ミキサーのセールスマンをやっていました。ケンタッキー・フライド・チキンの創業者カーネルサンダースも60歳を超えるまで1店舗のガソリンスタンドを所有するにすぎない変わり者社長でした。

夢と情熱は肉体年齢を超越します。私たちのクライマックスはまだ来ていないと考えて、もう一段高いところにピークを作ろうではありませんか。

2006年08月03日(木)更新

社長は黙って・・・

●「燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」ということばがあります。出典は、中国の古典『史記』で、秦の時代の英雄・陳渉のことばだそうです。あの坂本竜馬も、この言葉を好んで使っていたといいます。

●燕雀(えんじゃく)とは、スズメやツバメのこと。鴻鵠(こうこく)とは、おおとりと、くぐい、いずれも大きな鳥のこと。その意味するところは、小人物がどうして大人物の志を知ることができようぞ、というものです。

●竜馬には、こうした自らを鼓舞することばが多く残されています。たとえば、「世の人は、我をなんともいわば言え、我がなす事は我のみぞ知る」もそうです。小物にはわからない大物の志というものがあるのですね。

●経営者という職業も、なにかと周囲から理解されないことが多いものです。たとえば、経営者の会合などに顔をだすと、ときどき「家庭をかえりみずに仕事に明け暮れて、家族から愛想をつかされています」と頭をかく経営者がおられます。たしかに、「家庭すら守れずに会社を守れるのか!」というヤジが飛んできそうですが、私はこうしたヤジにくじけてはならないと思います。

●たとえ、家庭における人間関係がうまくいっていなかったとしても、従業員や顧客の幸せに貢献しようと一心不乱にがんばっておられる真摯な経営者だってたくさんいるのです。「より大きな愛」をもった経営者だからこそなせるわざではないでしょうか。自分のためでも家族のためでもなく、ただひたすら良い会社を作るため、良い社会を作るために真摯に働いている経営者って、鴻鵠(こうこく)そのものですね。

●経営者はもうひとつ、押さえておかねばならないことがあります。それは言葉ではなく、結果で評価されるという一面です。しかも一年とか二年という短期スパンでも結果を求められる存在だということです。そのあたりが昔の志士や今の政治家と異なる点です。自分の理念も理想も主義主張もすべては決算書に表れる、という覚悟も、経営者には必要なのです。

●あなたの事業の目的は何か、志は何かということについて百人百様の考え方があると思いますが、あなたがどのような経営者だったかは、「男は黙ってサッポロビール」(古い宣伝文句)ならぬ「社長は黙って決算書」なのです。

●鴻鵠の志と決算書の両方で勝負できる経営者になりましょう!

2006年07月03日(月)更新

彫りながら考える

●昨年、フィレンツェのアカデミア美術館で初めて「ダビデ像」(ミケランジェロの代表作)を見たとき、鳥肌がたつ思いをしました。写真撮影禁止でしたので、市庁舎前にあるレプリカ像を撮影したものがこれです。
 その大きさと迫力に圧倒されそうになっただけでなく、何だか後光が差しているように見えました。

ダビデ

●美術館の廊下の端からダビデ像の立っているところまで数十メートルありますが、その廊下の両側に、未完成ながらミケランジェロの彫刻作品が並べられています。それらの作品を見て私は「はっ!」としたのを覚えています。それらの未完成作品は、ちょうど子供の出産みたく、大理石の中から作品が今にも生まれ落ちそうになっているように見えたのです。

●鎌倉時代の仏師・運慶の作品も、木を彫って作品を作ったというよりは、木の中に隠れている作品を彫りだしてあげたようだと評されています。大理石のミケランジェロ、木の運慶、東西の天才に共通する仕事術なのかもしれません。

●では、会社経営を彫刻に例えるならばどうなるのでしょう。ミケランジェロや運慶の
ように、彫る前から中に埋まった完成像が見えているような会社経営なら楽しいでしょうね。しかし現実的には、"彫りながら考える"という経営に軍配があがるように私は思います。

●「戦略は前もって計画され、書式に記入できるもの」というのは、環境がそれほど大きく変化しない前提で成り立つもののようです。『ビジョナリーカンパニー』(日経B
P刊)では、「崩れた神話」と題して私たちが無意識にもっている常識が、実態とはか
け離れていることを指摘しています。その中に次のようなことが書かれているのです。

神話1.すばらしい会社をはじめるには、すばらしい事業構想か画期的製品が必要である。
神話2.大きく成長している企業は、綿密で複雑な戦略を立てて、最善の動きをとる。
 この2項目はいずれも「現実的ではない」という指摘なのです

●今でこそ世界を代表するような企業になったところでも、初期の段階では実験や試行錯誤、臨機応変、あるいは偶然によって生まれたものが少なくないというのです。むしろ、「大量のものを試し、うまくいったものを残す」というドロナワ的な方針の勝利だともいうのです。

●誤解しないでいただきたいのは、戦略も目標も計画も必要ないという意味ではありません。むしろ緩やか戦略や目標をもち、あとは行動しながら考えて変更を加えていくという程度の方が、実際上は有効だという意味です。

●時々、勘定科目ごとに円単位で経費予算をたて、円単位で毎日の実績をチェックしているような会社がありますが、それが効果的だったのは環境が大きく変化しない時代です。今はあらゆる業界が乱世です。

●アメリカには「戦略クラフティング(工芸)」という単語があります。ちょうど粘土
をこねながら造形物を作るようなものに似ているからこうしたネーミングが生まれたのでしょう。会社経営は、ミケランジェロや運慶のような天才を必要とせず、彫りながら考える、考えながら彫るという非・天才のやり方に勝ち目があると私は思うのです。

●大切なことは、定期的に立ち止まって考えることと、必要な軌道修正を行い続けることなのです。
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