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社長業を極めるためのカリキュラムについて、「日本的経営のリニューアル」という視点から紹介します
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2013年05月17日(金)更新
三畏(さんい)
●小学生が、「織田く~ん、おださ~ん、オダちゃ~ん」とさけんでいる。人気俳優・織田裕二への歓声ではなく、なんと織田信長への歓声なのだ。
毎年10月22日は京都三大祭のひとつ、「時代祭」の日である。友人にお願いし手に入れておいた指定席に着座した。ちょうど行列ごしの反対側に小学生たちが座っていた。有名な英雄が通るたびに、「西郷(隆盛)さ~ん」とか「しんさく~ぅ(高杉)、こっち見て」などのかけ声が飛ぶ。まるで歌舞伎役者のようだ。
●明治維新から始まって江戸時代、安土桃山時代という順に歴史をさかのぼっていく。専門家が時代考証・衣装考証しているという本格的な時代ファッションショー的な色合いもあり、とにかく美しい。当然、外国人観光客も多く、興奮している。
●日本史上の有名人がたくさん登場するのだが、意外な大物がこの行列に登場しない。たとえば、信長・秀吉が出るのに徳川家康が出ない。西郷や坂本、桂、高杉が出るのに、大久保利通が出ない、など不思議な点もあるがそこまで詮索するのはよそう。
●そんな中、一番人気はやっぱり信長。冒頭にご紹介した小学生のかけ声がひときわ大きくて熱い。ヒーロー、ヒロインは子ども達のあこがれであり、心のなかでメンターであり続けるのだろう。
●そうした意味で、私はダウンタウンというお笑いコンビが嫌いだ。というより、彼らが司会する番組の多くに問題があると思っている。
すでに放送は終了したが、「HEY!HEY!HEY!」や「ジャンクスポーツ」などでは、歌謡やスポーツのヒーロー・ヒロインを登場させ、それをこき下ろして遊んでいる。あれでは青少年の情操教育にすこぶる悪い影響を与えると思うのだ。
●「スターを身近に感じてもらう」という彼らなりの言い分もあるのだろうが、孔子がこんな言葉を語っているのを番組制作者たちは思い出してほしいものだ。
「君子に三畏(さんい)あり。天命を畏(おそ)れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れざるなり。大人に狎(な)れ、聖人の言を侮(あなど)る」
●その意味はこうだ。「リーダーは、三つのものを畏れる(尊重す)べきである。一つは天命を畏れ、大人(優れた徳のそなわった人)を畏れ、聖人の言葉を畏れる。
その逆に、つまらない人物は、その三つのものを大切にしない。つまり、天命(天から与えられた使命)を知ろうともせず、わがままに振る舞い、尊敬すべき人になれなれしく接し、聖人の言葉を馬鹿にする」
●「HEY!HEY!HEY!」などの番組から受ける嫌悪感は、大人に狎れる(なれなれしい)子供を育成しかねない危機感からくるものだ。
私はお笑い番組を否定するものではない。むしろお笑い番組が大好きである。いつでも明るく振る舞うタレントをある面では尊敬もしている。だが、笑いの質と影響を考えねばならない。お笑いタレントとして天命をもち、勉強してほしいと願う。
●子供たちの先輩のなかに、ヒーロー・ヒロインを持たせることは、教育上とても大切なことなのである。
2013年04月26日(金)更新
武士道
●ある日、三島由紀夫を題材にした映画を観た。たいへん重くて複雑な気分になる映画だったが、もっと彼の心の奥が知りたくなって『葉隠入門』(三島由紀夫著)を読んでみた。そのなかにこんな一節を見つけた。
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なによりもまず外見的に、武士はしおたれてはならず、くたびれてはならない。人間であるからたまにはしおたれることも、くたびれることも当然で、武士といえども例外ではない。しかし、モラルはできないことをできるように要求するのが本質である。
そして、武士道というものは、そのしおれた、くたびれたものを、表へ出さぬようにと自制する心の政治学であった。健康であることよりも健康に見えることを重要と考え、勇敢であることよりも勇敢に見えることを大切に考える、このような道徳観は、男性特有の虚栄心に生理的基礎を置いている点で、もっとも男性的な道徳観といえるかもしれない。
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●『葉隠』というと有名な一節がある。それは、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」というものだが、そのフレーズだけを聞いて『葉隠』を腹切りのススメと解釈してはいけない。三島に言わせれば、『葉隠』は武士の自由と情熱を説いた本らしい。私はこの本から自由と情熱を感じるまでには至っていないが、現代人にも通用する道徳書だと思った。
●「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という印象的な一節がひとり歩きしているが、古来、武士はたえず自らの死に場所と死に様を想像し、覚悟しておくことが必要だった。それによってはじめて潔い生き方ができると考えていたのだ。生き様と死に様は表裏一体のものであるというわけだ。
●平成の今日、昔にくらべて平和な世の中になったことは好ましいことだが、現代人が死ぬ時は、事故か病気。
死に場所は病院か自宅のベッドの上である確率が高い。価値あるものにこの命を捧げたいという願望はあっても、結局はベッドの上が平和なのだろう。死に場所が決まっているのなら、この価値ある命を日常の生活や仕事のために燃焼させよう。
●まとまりがつかなくなったので、三島由紀夫の訳を参考に『葉隠』を少しつまみ食いしてみよう。
○仕事に関しては、大高慢で死に狂いするくらいがいい。雑務方は、知らぬがよし。武士である以上、武勇に関しては大高慢で、死に狂いするくらいの覚悟が必要である。つね日ごろの考え方、ものの言いよう、身のこなしなど、すべて綺麗にしようと心がけて、つねにつつしむべきである。一生の仕事は、人のためになることばかりを考え、よけいなことは知らないほうがよい。
<武沢意訳>武勇に関しては高慢・・・自分の仕事に関してはもっと胸を張って威張れるようになれ。必要以上にへりくだるな! 武士ならば、雑学やうんちくは語るな!
○自分の目的の障害になるのなら、神仏に嫌われてもかまわない。神はけがれを嫌うが、戦場で血を浴びたり死人を足げにして働いているときの武運長久を祈るために信心を大切にせよ。けがれが身についているとそっぽを向いてしまうような神仏であったら、それも仕方のないこと。自分のけがれのいかんにかかわらず、神仏を礼拝しよう。
<武沢意訳>「神仏よりも職務の遂行」。もちろん正しい理想と理念があってのこと。
○成り上がり者を馬鹿にしないこと奉公人も下賤から身を起こして高い身分にまでなった人というのはその人なりの徳や能力が備わっていたから立派なこと。はじめからその地位にあった人よりは、下々からのぼってその地位についた人を我々は尊敬しなければならない。
<武沢意訳>セレブの子息よりも成り上がり者と付き合え!
★『葉隠入門』(三島由紀夫著)新潮文庫より
2013年04月12日(金)更新
酒を贈る
●久しぶりにお目にかかった関西のG社長(40才)が、ちょっと相談があるという。酒癖がわるい営業部長(58才)の処遇をどうすべきか悩んでいるらしい。創業者の父が急逝し、急きょG氏が実家に戻って社長に就任して今年で4年目。
●G社長は営業部長の酒癖が悪いということをウワサで知ってはいたが、酒席をともにすることがないまま4年を経過していた。だが、今年から社員と会食する機会を増やしているG社長。当然、営業部長との酒席も増えたことから、聞きしにまさる酒乱ぶりをまのあたりにすることとなる。
●先日も部下の営業マンにからんだ。
「おい、山田。お前の大ボラは聞き飽きた。いつだって発表した目標の半分しかやれないじゃないか君は。社内でみんな、お前のことを何て呼んでるか知ってるか? え? 知らない、教えてやろう、『狼少年』だ、ダーッハッハッハ! 言い得て妙だ、悔しかったら目標どおりやってみろっつうの」
最初は適当にあしらっていた山田君も、あまりにしつこいので反論・抗議すると場はますます炎上するという。
最初は適当にあしらっていた山田君も、あまりにしつこいので反論・抗議すると場はますます炎上するという。
●ところがこの営業部長、日ごろは真面目で仕事はできる。むしろ、まったく別人であるかのように大人しく、コツコツと実績を積み上げていくタイプだという。
●G社長も思いあぐねたが、思い切って昼間に二人で喫茶店へ行った。「部長、酒席も仕事の一部だと思ってください。酒に酔っているとは言え、部下をおとしめるようなことはあなたらしくない。二度とあのような発言はしないようにしてほしい。どうしても部下に指導したいことがあれば、昼間に会社でやって下さい」と忠告をあたえた。
●営業部長は深々とお辞儀し、「はい、そのような失言を発したことを他の者からお聞きして恥じ入っております。実は憶えがないのです。大変失礼をいたしました。二度とかような失態がないよう、慎みます」と、ものすごく反省している様子。
●だが、その後も酒席があるたびに営業部長の乱心が続くので、G社長は、降格または解雇も辞さない構えでいるという。だが、たとえ降格しようが解雇しようが、彼自身の酒癖を直さないことには彼に一生、酒の失態がついてまわる。
●だから「リーダーとしてどうすべきか?」というのがG社長の相談内容だった。
●私はその時、ある逸話を思い出した。南北戦争当時、リンカーンがグラントを最高司令官に任命したとき、グラント将軍の酒好きを危惧する部下がいた。「あの酒飲みに最高司令官がつとまるのか?」というのだ。グラントの酒好きを聞いたリンカーンは、「この国家非常事態のときくらい酒はやめてほしい」なんて野暮なことは言わない。むしろその逆にこう言ったのだ。「銘柄をしらべて贈りなさい」
●そして、グラントを最高司令官に任命したことが南北戦争のターニングポイントとなっていく。酒好きという人間の弱みの部分ではなく、戦上手という仕事の強みにもとづいて人事を行うのがリンカーン流だった。
●弱みに基づいて人事を行えば、社内に誰もいなくなる。強みに基づいて人事を行うのが大原則である。ただし、強みをも帳消しにしかねない弱みについては、本人と一緒になって克服プログラムを作り、実際に克服させていくのが中小企業における社長のリーダーシップだと思う。
●その後、G社長は営業部長にどのような対処をされたのかは聞いていない。自宅に部長好みの焼酎をドーンと贈ってあげるくらいの度量があれば良いのだが・・・。
2013年03月15日(金)更新
なにが幸運か
●小学生になる息子とデパートに買い物に出かけたお父さん。ネクタイを品定めをしていると、息子が公衆電話のところでしゃがんでいる。
「気分でも悪いのか」と思って駆けよってみたら、「お父さん、これが落ちてたよ」と一万円札を見せた。どうやら拾ったらしい。
●周囲を見回したが、近くに人はいない。
「お父さん、交番に届けようと」と息子。お父さんは言った。
「わかった。今から行こう。でもここはデパートなので交番ではなくて、落とし物係の人に届けよう」
●書類を書いて一切の謝礼の権利も放棄し、ふたたび売場にもどって買い物を続けた親子。
私はその話を聞かされて痛く関心した。そして、「なぜそうしたのですか?」と聞いてみた。するとまったく予期しない答えが返ってきた。
●「武沢さん、もしうちの息子に拾ったお金で得するところを見せたら、子供にとって一生の不幸でしょう。本当にツイている人はお金を拾っても着服しないし、謝礼も受け取らないものだということを教えたかったのです」
●立派な考えだと思う。
告白するが、その2年ほど前に道路に落ちていた5千円札を息子が拾って二人で交番に届けたことがあった。それから1年経っても落とし主が現れなかったので、我々はそれを頂戴して帰り道にゲームを買ったのだった。
・財布を拾う
・万馬券を当てる
・パチンコで大儲けする
などはよほどお金にツキのない人間に起こりうることだと『ツキの大原則』(西田文郎著、現代書林)に書いてあったのを思い出す。
●私の友人のある経営者もツキに関しては独特の哲学をもっている。
ある日のこと、その友人がマカオのカジノで大金を稼いだ。中国人が大好きなバカラを一晩中やったらしい。
バカラとは、「大」か「小」かを当てるだけのいたって単純かつ単調なカードゲームのこと。そのくり返しだけで彼は数百万円稼いだという。彼いわく、
「マカオの場合はラスベガスより稼ぎやすいですね。ディーラーも他のお客もアマチュアが多いので隙だらけですよ」と前置きし、「要はツイている人に乗り、ツイてない人の逆をやる。たったそれだけです」と。
●そして自分の方に好調のリズムが乗りうつってきたとき、大きく賭けて大きく稼ぐ。このとき、金銭感覚をマヒさせてしまわないことだ。目的は遊ぶことなのか、勝つことなのかをよくわきまえないと、最後にはゼロにしてしまう。好調の潮が引いたら休むのだ。
ドリンクを飲みながらショーでも観ることによって脳をリフレッシュさせ、勘を取り戻す。
こうして元金数万円で始めたバカラゲームは12時間で百倍に膨らんだという。
●大切なことは、カジノで稼いだツキで本業のツキまでもって行かれないことだとか。だから、そのお金をきれいさっぱり忘れることが大切だ。
従って知人の会社に投資し、儲けたお金のことを忘れてしまう。
●本業以外のことで儲かった余韻に浸っていると、本業がダメになる。
ツキとはなにか、それは私たちが一見幸運だと思うことをむやみにありがたがらないこと。同時に、不運に思えることを幸運につなげるしたたかさを忘れないことだ。
2013年03月08日(金)更新
大きなテーマ、大きな疑問符
●考えても考えても答えがみつからない。そんなテーマをあなたはお持ちだろうか。
たとえば、ビジネス目標。是が非でもこの目標を達成したい。だが、どうやったらそれができるのか分からない。だからこそ、学ぶのであり人の話を聞くのである。
だが、やり方が分からない目標を考えるのが面倒くさいのか、やれそうなことしか目標にしない会社が多いのはもったいない話である。
●私たちのビジネスや人生でブレイクスルーを起こすためには、心にいつも大きな疑問符を灯しつづけることが大切だ。スケールを大きく考えて、ノーベル賞を取れるくらいの大きな社会変革を起こそうではないか。
ひとつのテーマに対してひとつのアイデアだけで終わらせず、あらゆる角度からアプローチした答えを用意する。しかもひたすら掘りさげて掘りさげて、心の芯に届くまで考えぬきフィールドで検証していく。
●そもそもノーベル賞をとるような学者の多くは、先人の業績を尊重し学びながらも同時に、その上にさらに新しいことを積み上げようとするものである。日本では京都にそうした気性のもちぬしが多いのだろうか、自然科学分野における日本人のノーベル賞受賞者15名のうち、なんと5名が京都大学出身者(旧帝大含む)なのだ。
ゆかりのある人も加えると倍になるだろう。
●京都大学出身のノーベル賞受賞者(自然科学部門)
<物理学賞>
湯川秀樹氏
朝永振一郎氏
<化学賞>
福井謙一氏
野依良治氏
<医学生理学賞>
利根川進氏
●そのあたり、元・京大総長の平澤興氏は『現代の覚者たち』(致知出版社)で次のように話す。
・・・湯川、朝永、江崎の三氏は物理学での受賞です。これにはいろいろの原因があり、京都の自然とか、京大の個性を尊ぶ自由の空気なども関係しているでしょう。しかし京都の三高に物理学の先生で、森総之助という素晴らしい独創的な物理学の先生がおられたんです。この三氏は、森先生の教え子です。つまり、ノーベル賞のもとは森総之助なんです。で、湯川君なんかは頭の回転の早い、いわゆる頭のいい人じゃなかったようです。大体、頭がいいとか悪いということが、実際どういうことなのか私にもよくわかりませんが、湯川君なんかは、すぐわかったような気持ちになる粗末な頭ではなく、わかるまで徹底的に考えぬく、限りない深さをもった頭ですね。(後略)
・・・
※『現代の覚者たち』(致知出版社)
●偶然かどうか、私が京都で定例勉強会をひらいていたころ、講義のあとにかならず議論を吹きかけてくる若者がいた。「武沢さんの講演を聞いてどうにも納得できない箇所があるのでお尋ねしたい」と二次会の宴席になって執拗にくいさがってくる好青年・T君もたしか京都大学の理工系出身者だったことを思い出す。
●安易にわかったようなふりをしないことが学ぶ上では大切なことだ。だからといって、錯覚してはならないことがある。わかったふりをしないとは言っても、熱心に聞くことが大切なのは言うまでもない。聞く姿勢まで懐疑的・批判的・傍観者的であってはならないのだ。
●そのためには、最前列正面に腰かけるのが良い。それができなければ、少なくとも前から3列目までに腰かけることが重要だ。そうした学習者に対しては講師としても真剣に接しようという気になる。そもそも後方で聞くと、それだけで人間心理として講師や会に対して傍観者的になってしまうものである。
そんなもったいない聴き方にならないためにも、まずは大きなテーマをもつことである。そのテーマに関するヒントを求めて人の話を聞こうとする。そうすればおのずと前の方に座りたくなるものである。
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