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2011年11月04日(金)更新

“あきらめの蔦”から”攻めダルマ”に

●先日、ある経営者の方からメールを頂戴しました。
 
「今日から私は新しい名前、○○○○になりました。よろしくお願いします」とありました。下の名前はもちろんのこと、苗字までもがまったく新しいものに変わっていたのです。
 
ペンネーム、ビジネスネームなのか、本当に戸籍の名前も変えてしまったのかは分かりません。
 
●改名は昔から行われてきていて、古くは新約聖書のペテロがそうです。
 
彼はキリスト・イエスに出会うまでは漁師をしていました。そのころはシモン(葦)という名で、イエスにこんなことを言っています。
 
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
 
すると、イエスは「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」とシモンに言っています。
 
●このあともイエスに付き従って、時々軽はずみにも意味のないことを口走ったり有頂天になったりするシモンですが、あるときイエスは、「あなたは今日からシモンではない。ペテロ(岩)だ」と新しい名を与えます。そこからペテロの伝道師としての新しく力強い歴史がスタートし、やがて大聖人の一人になるのです。
 
●名前こそ変えなくとも、古くて弱い自己像をたたきこわし、新しい自分像をつくったおかげで成功した人はたくさんいます。
 
徳島県立池田高校野球部の元監督、蔦 文也(つた ふみや、1923年 - 2001年)さんもそのお一人でしょう。
 
●蔦さんは、昭和27年に池田高校の野球部監督に就任しています。以来、まったく無名の同校を、四国大会の常連校にするまでに10年を要しました。しかし、そこから悲願の甲子園初出場までには、もう10年の歳月を必要としています。いつもあと一歩、ここ一番というところで負けてしまうのです。
 
●後に相手校から "攻めダルマ" とおそれられる蔦監督も、50才台までは"あきらめの蔦"を自認していたそうです。勝利の執念にまったく乏しい監督だったというのです。
 
「私のようなお人好しタイプが大事な試合で勝てないのは当たり前だ。選手がミスを犯すのも、この性格が乗り移るからだ。甲子園まであと一歩と迫っても、この性格が運命を呼んでしまう。結局、負けるのは私の宿命なのだ。気の小さいワシが監督をしている限り、絶対に池田高校は甲子園に出場できない」
 
そう蔦監督は思いこんでいました。
(『攻めダルマの教育論 蔦流・若者の鍛え方』ごま書房 より)
 
●実は当時、池田高校野球部は、存続か廃部かの瀬戸際に追いつめられていました。池田高校から商業科がなくなり、普通科一本になったからです。野球部生徒は、商業科が多かったため、おのずと野球部の存続はむずかしくなっていたわけです。
 
そのラストチャンスともいえる年、奇跡はおきました。
 
●南四国大会決勝、徳島商戦。
 
池田高校は初回いきなり0-3とリードされ、そのまま試合は淡々と進んでいきます。
 
以下は、蔦監督の言葉です。
 
・・・
「またか!」と嫌な予感が胸をよぎった。そして、「あー、もう負けた。もうあかん。」とベンチで私がつぶやいた。生来のあきらめの早さが出たのだ。なんといっても、『あきらめの蔦』と呼ばれる私である。
そのときである。横にいた元木部長が怒鳴った。
『イカン!蔦はん。勝負事は最後まであきらめたらイカン』
『アホいうな。3対0で負けておるのに、どうして勝てるんじゃ。アカン、アカン。もう帰り支度じゃ」
 
私はすっかり試合を投げてしまっていた。そうこうしているうち、ヒットエンドランが決まり、4番の峰川に中前タイムリーが出て2点入った。
3対2だ。元木先生は、『みてみなはれ。ワシのいうとおりじゃ。こりゃいけまっせ。」
 
4-4のまま延長へ。そして10回裏、サヨナラ勝ちした。」
・・・
 
●「性格というのは恐ろしい。強気でしっかりしている男は、他人にまで幸運をもたらす。私のように弱気な男は、逆に臆病が選手に伝わり、揚げ句の果てに、負けを呼び込んでしまう」
 
蔦監督はこの日以来、自分の性格と向き合い、弱さを克服しようと性格改造に乗り出しました。
 
●シモン(葦)という本名から生来の気弱さを見抜かれ、イエスに「あなたは岩(ペテロ)だ」と言われ、後に大聖人となったシモン。
 
「あきらめの蔦」が「攻めダルマ」に変身したのもある試合の体験から。自らの弱さと向き合い、それを克服するのに才能や年齢は関係ありません。意思ときっかけがあれば、誰だってできるはずなのです。

 

2011年09月16日(金)更新

テストと考査

●変化するとは、今の上に新しく何かをトッピングすことではありません。
いったんゼロにすることであり、いったんやめること、いったん忘れることから始まるものです。
 
●より良い話し方をマスターするとは、表面的な技法を身につけることではなく、話し方を根本から変えることです。同時にそれは、生き方を変えることでもあると教えられたのに、そのことに気づかなかった私はかつて大失敗しました。
 
●「日本話し方センター」の故・江川ひろし先生の講座を受けたときのことです。初日の研修が終わろうとする時に宿題が出ました。家に帰って、明日までにやってくるものです。
今日の講座でどの程度学んだかをチェックする目的で、テキストやノートを見ても構わない「考査」というもので、学んだ通りの表現や言葉を使って回答するものです。
 
●「なんだ、簡単じゃないか」出題を見て、私は安心しました。どこかでなめてしまっていたのでしょう。受講者仲間とファミレスでハンバーグを食べながらその場で片づけてしまいました。
 
そして、翌日の午後、結果発表がありました。
 
●「成績の良い順に答案をお返しします」と事務局。
私は、自分が首位で100点満点だと信じていたのですが、事務局は、「トップの方は、山本太郎さん。88点です」と言いました。我が耳を疑いました。
「あれ?」自分の名前ではない。しかも88点ではありませんか。
 
●「二番目の方は85点で須藤ちか子さん」、「三番は81点の松木順さん」・・・・。
あれあれ~、全然私が呼ばれない。最初は何かの間違いだと思っていましたが、だんだん自信がなくなり放心状態になりかけたとき「24番めのかたは、武沢信行さん。43点です」
 
●33人中24番。
 
江川先生から答案用紙を受け取り、席へもどりました。身体が火照っています。答案用紙は×だらけ。これが「考査」というものの恐さだと思い知りました。
 
●他の生徒たちは、テキストの表現や講座中の板書メモに沿って忠実に回答していたのに、私は、自分の言葉づかいで回答していました。いわゆる「テスト」だったら高い点数が取れたのかもしれませんが、「考査」ではそれが通用しないのです。
 
●この出来事を通して私は、学ぶことにも二種類あるのだと思い知らされました。
一つは、主旨を理解する学習法。もう一つは、学んだことをそっくりそのまま再現できる学習法。
 
●主旨を理解すれば充分な学習もあるでしょう。しかし、主旨の理解だけではダメな学習もあるということです。
むしろ、自分の経験をもとにした過去の知識はかえってジャマになることもあると気づかされました。
 
何かを学ぶときには、積極的に過去のことを忘れましょう。一時的でも構わないので、とにかくまったく知らない人になって素直に学ぶことが求められることがあります。
謙虚で真摯な学習姿勢が、変化と成長の原動力になるのだと教えられた一日でした。
 

2011年08月26日(金)更新

師から弟子に

●江戸時代後半、明治維新の原動力となる若ものたちが各地で育ちました。各藩の公式学校とでもいうべき藩校はもちろん、私塾も人気でした。吉田松陰の「松下村塾」、緒方洪庵の「適塾」などが有名です。
 
●蘭(オランダ)医者だった緒方洪庵が大坂でひらいた「適塾」には12箇条よりなる訓戒がありました。その一条めが次のように、まことに厳しい。
 
「医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分をすてよ。そして人を救うことだけを考えよ」
 
●250通以上残っている洪庵の手紙の多くにも「道のため、人のため」と結ばれています。
 
もともと医師を志す若者を集めていたのでこのような訓戒が真っ先にきているのですが、やがて「適塾」の評判は日本中に広まりました。
なにしろ西洋学を志す人材が全国から1,000人も集まるようになっていくのですからネット社会の今ならケタ違いの数字になるはずです。
記録をみるだけでも、橋本左内、大村益次郎、箕作秋坪、大鳥圭介、福沢諭吉などなど、そうそうたる人材が適塾で育っていったわけです。
 
●「適塾」がなぜこれほどまでに人気を集めたのでしょうか。
 
人間・緒方洪庵の徳の高さもありますが、自由競争の魅力が若者を刺激したとも言われています。
「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」と福沢が言い続けたように、身分や家柄を大事にする江戸時代にあって、「適塾」には身分などまったく関係ありません。自由な空気にあふれ、学問の実力だけが問われました。塾生たちは、喜びと興奮をもって学問を楽しんだことでしょう。
 
●「適塾」の新人塾生は、まず8級からスタートします。最初は語学(オランダ語)を学び、月に6回、「会読」と言って何人かが集まって蘭書を訳します。その出来不出来で学力を競い合い、等級がつけられるのです。
 
一級が一番上なのですが、各級ごとに「会頭」が設けられ、塾生全部を代表して「塾頭」を設けていました。実力が一目瞭然に分かる仕組みが若者を刺激したことでしょう。
 
●「適塾」は幸いにも現存します。
大阪市中央区北浜三丁目に重要文化財として公開されているのです。「適塾」はその後、発展解消して今の大阪大学になりました。
 
●「これ以上できないというほどに勉強もした。目が覚めれば本を読むという暮らしだから、まくらというものをしたことがない」と明治になって福沢諭吉が語っています。
 
入塾した年、諭吉はひどい腸チフスにかかって高熱にうなされました。命取りにもなりかねない症状だったのを見かねた洪庵は、「俺はお前の病気をきっと診てやる」と多忙な合間をぬって、毎日診察しました。これは諭吉青年にとって終生の思い出として語られることになります。
 
●洪庵にとって「道のため、人のため」は単なるスローガンではなかったようです。
生きた実践哲学ともいえるもので、弟子の高熱を治すために真剣に診療する洪庵の姿をみながら、諭吉たちも「道のため、人のため」を学問の目的にしようと固く決心したに違い
ありません。
 
師から弟子へ、親から子へ、上司から部下へ、経営者から社員へ・・。
 
受け継がれていくべき精神とはこういうものではないでしょうか。
 
★適塾 http://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/about/tekijuku
    http://www.geocities.jp/general_sasaki/tekijuku-ni.html

 

2011年08月12日(金)更新

三人のコーチ

●某月某日、オフィスでビールを飲んでいました。
 
18時から21時まで、アポ不要。自分のアルコールかソフトドリンクとおつまみをご持参ください、というオープンオフィスイベントの日なのです。
 
●始まって間もないころ、ある販売会社のA社長が来られました。
 
「武沢さん、ちょっとご相談があるのですが、今よろしいですか?」
 
私は他の来客者にも目で確認しながら、「はい、この状況でもよろしければどうぞ」と言いました。
 
A社長はウーロン茶で口を潤し、おもむろに話し始めました。
 
●偶然ですが、同席したのはマーケティング関係のコンサルタントばかり3人。皆、だまってA社長の長い長いお話を最後まで口を挟まず聞きました。
 
彼の、相談というより状況説明は15分ほど続いたでしょうか。コンサルタントは我慢強く、表情も変えずに、相手に最後まで気持ちよく語ってもらう仕事です。とは言え、相談内容がどこにあるのか分かりづらい話を15分聞くのは相当な辛抱が必要でした。
 
●「・・・・・・・という訳ですので、ご意見をお聞きしたいのですが」とA社長。
 
要するに、ある輸入製品を売りたいのだが日本ではまだ市場がない。しかも自社は代理店の下の位の販売店という立場。できれば正規代理店になってメーカーと直接取り引きもしたい。だが、今の代理店とケンカはしたくない。どのような優先順位で行動すべきだろうか?ということのようです。
 
●この話を聞いていた3人が順に意見を述べていきました。
面白いことに全員の意見が異なっていたのです。
 
・一人目の意見。
あなたの「絶対成功する」という信念は大切だが、特定商品への思い入れだけが強いのは危険だ。
"市場に聞け"ということばがあるように、まずは営業活動に出向くことだ。その製品で売上げや利益を確保できるという見通しが持てるようになることが最優先の課題ではないだろうか。結果次第では、その製品ではダメだと結論づける事だってあり得る。決めるのはお客だ。
 
・二人目の意見。
気の毒だが日本での成功は大変むずかしい製品だと思う。今のあなたの話を聞いて、私自身が消費者になりたいとは思えなかった。お客のゴリヤクが何なのかを分かりやすく語れるようになることが、あなたの一番の優先順位ではないだろうか。また、今まで日本でこの製品がなぜ売れてこなかったのかをもっと調べることも大切だ。もっと冷静になって、あなたにふさわしい他の製品をさがした方がよいと思う。
 
・三人目の意見。
ユニークという意味でとても面白い製品を見つけてきたと思う。簡単に売れるとは思わないが、ある程度の市場が日本にもあるように思う。僕だったら、すぐにそのメーカーにアポをとって外国に飛ぶ。そして、こちら側の熱意とか希望を伝えに行く。メーカーの熱意も聞いてみたい。そして、安心して日本国内での販売活動が続けられるような供給体制やアフターサービスなどを確認し、販売計画をメーカーと共有してくる。
 
●三人目は売れると言い、二人目は売れないと言い、一人目は市場(お客)に聞けと、それぞれが違うことを述べています。
未知の商品だけに悩ましいところですが、私はこのときのAさんの態度が相談者として好ましいものではなかったと感じました。
 
●助言に対して議論してしまうのです。Aさんはこの製品を愛しているのでしょうが、自分にとって好ましい意見には耳を傾け、好ましくないものには反論する、という態度では他人の助言を冷静に聞くことができなくなります。
 
●しかしコンサルタントの三人はコーチング的なメソッドを持ち合わせていました。
 
誰一人感情的にならず、最後には彼が明日から何をすべきかを焦点を絞るための質問を発していったのです。
売れると思うか、売れないと思うか、という相談には主観で回答するしかありませんが、明日からどうすべきかという相談であれば質問で回答できるのです。
 
質問に答えながらA社長が自分で自分のことが分かってくる、それがコーチング的なメソッドなのでしょう。A社長にとって、お得な30分になったはずです。
 
 
 

2011年07月22日(金)更新

寧静致遠

●北京、紫禁城(しきんじょう)。
中国の歴代皇帝がこの広大な敷地と膨大な数の建物群を住処とし政務を執り行い、ラストエンペラー溥儀(ふぎ)の代まで使われてきました。
その後、故宮(こきゅう)と名を改め、天安門をくぐって入る北京屈指の観光名所になっています。
 
●あるときここを訪れた私は、紫禁城内のイベントコーナーで書家の方々のパフォーマンスに出くわしました。希望すれば好きな言葉をその場で書いてくれ、掛け軸などに表装してくれるサービスもあるのです(二万円程度)。
 
●私もさっそくお願いしてみました。どんな言葉を書いてもらおうか、いろいろ迷ったあげく、「寧静致遠」をリクエストしました。"ねいせいちえん"と読みます。
 
これは、かの諸葛亮孔明が息子に書き残したことばです
 
「澹泊明志 寧静致遠」(たんぱくめいし ねいせいちえん)というもので、正確には次のとおり。
 
・・・
誡子書
 
夫君子之行 静以修身 倹以養徳
非澹泊無以明志 非寧静無以致遠
夫学須静也 才須学也
非学無以広才 非志無以成学
滔慢則不能励精 險躁則不能冶性
年與時馳 意與歳去 遂成枯落
多不接世 悲守窮盧 将復何及!
・・・
 
「それ君子の行ひは、静を以て身を修め、倹を以て徳を養ふ。澹泊(たんぱく)にあらざれば、以て志を明らかにすることなく、寧静にあらざれば、以て遠きを致すことなし。それ学は須く静なるべく、才は須く学ぶべし。学ぶにあらざれば、以て才を広むるなく、志あるにあらざれば以て学を成すなし。
滔慢なれば則ち精を励ますこと能はず、険躁なれば則ち性を治むること能はず。年は時と与に馳せ、意は日と与に去り、遂に枯落を成し、多く世に接せず。窮盧を悲しみ守るも、将た復た何ぞ及ばん。」 
 
●「澹泊明志 寧静致遠」
 
「我欲が強くては志を保つことはできない。一心に努力しないと遠大な所には到達できない」という意味になります。
 
この書を額装し、掛け軸にしてもらいました。今、私のオフィスにこれが掲げられ、私を見張ってくれています。
 
 
 
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