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社長業を極めるためのカリキュラムについて、「日本的経営のリニューアル」という視点から紹介します
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2011年07月01日(金)更新
捨てる
●司馬遼太郎原作の『坂の上の雲』の主人公は、秋山好古・真之の兄弟と正岡子規。いずれも松山出身の若者たちで、彼らがある分野で近代国家・日本を切りひらいていく明治時代の物語である。
●子規は若くして結核にたおれたが、近代俳句の世界を切りひらいた。
また、秋山兄弟は兄が陸軍で栄達し、日本騎兵の父といわれるにいたった。弟・真之は海軍の連合艦隊の作戦参謀として東郷平八郎に仕え、ロシアのバルチック艦隊をやぶる作戦を考案した。
●兄の好古はいつも身のまわりを簡素に保った。
それは、一大事があったとき身のまわりが複雑であっては行動がにぶくなる。
ひとり暮らしをしていた兄を訪ねた真之は、一緒にごはんを食べたくても茶碗がひとつしかないことに閉口する。兄がその茶碗で酒を飲み干すのを待ってからメシを茶碗によそって食う。弟がメシを食い終わるのを待ってその茶碗で兄が酒を飲む。
●そうしたエピソードをたくさんもつほど、兄はシンプルにこだわった。
「家を出て出家するのはむずかしいことではない。むずかしいのは、出家したあと寺を出ることだ」と江戸時代の僧侶:慧薫風外(えくんふうがい)は語った。
●修行僧(雲水)は、師を求めて寺を渡り歩く。「これぞ!」という師に巡りあうことができれば、そこで修行を続ける。
あいにく悟りが得られないまま師に見限られてしまえば、別の師をもとめて旅に出ねばならない。こちら側で師を見限るときだってある。そんな時もやっぱり旅にでる。
●ところが、一度入った寺を出るのがなかなか大変らしい。悟りもひらけず、師を見限ることもできないまま、人間関係と義理人情がからんで、思い切り悪くひとつの寺に居つづけてしまいがちだという。
●私はこの話を聞いて、ビジネスも一緒だと思った。慧薫禅師の言葉をビジネスに応用すれば、こうなる。
「起業するのは難しくない。難しいのは、起業したあとでも会社を起業的に保つことだ」
「会社を軌道に乗せるのは難しくない。難しいのは、軌道に乗せた仕事をさらに発展させることだ」
●シンプルかつ身軽でいることが一番である。余分なものは捨てなければならない。目的を決して忘れず、目的に関係しないものは潔く捨てるのだ。
それは目にみえるものだけでなく、義理人情のたぐいの人間関係のしがらみもなるべくシンプルに保っておこう。
2011年06月24日(金)更新
龍樹というひと
●むかしむかし龍樹(りゅうじゅ)というインドの若者がいました。
彼は大変に煩悩の強い人で「愛欲が人生の一番のよろこびだ。だからたくさんの女性と交わることこそ人生の幸福だ」と考えました。いや、考えただけでなく龍樹はそれを実行したのでした。
●大変頭が良かった龍樹は秘術をマスターし、みずからの身を隠す術を覚えました。そして王が暮らす宮廷に忍び入り、夜な夜な愛欲のかぎりをつくし、宮女たちを妊娠させていきました。
やがてそれが発覚し、龍樹の仲間は殺されてしまいました。龍樹ひとり命からがら宮廷を脱出したという話が仏典のなかに出てくるそうです。
●要するに龍樹とは愛欲におぼれる若者だったのですが、そんな彼が後に、ものすごく立派な仕事をなしとげ、仏教史に名を残すのですから人間は分からないものです。
龍樹(りゅうじゅ)とは、煩悩、とくに愛欲や性欲が強いゆえにそれにおぼれ、苦しみました。その苦しみから逃れたくて仏教に興味をもち、やがてその龍樹が「空」(くう)を生みだし「大乗(仏教)八宗の祖」とまで言われるようになるのです。
●ちょっと考えてみたいのですが、「性欲は強いが食欲は乏しい」とか、「物欲は盛んなのだが性欲はない」というようなことは、本来、矛盾した話でしょう。
「性欲」とか「食欲」とか「物欲」など、それぞれの欲がどこかで単独で存在するのではなく、どんな欲だろうが源は「生命エネルギー」ひとつだといわれています。ただ、エネルギーのはけ口が違うだけなのです。つまり我欲や煩悩がつよい人は、エネルギーが強いわけですからそれを上手にいかせばよいのです。
●ということは、欲とのつきあい方を再検討していく必要がありそうです。
どのような欲(煩悩)であろうとも、それを打ち消そうとするのが小乗仏教の考え方で、初期の仏教(小乗仏教)では煩悩を断ち切るための修業や隠遁生活をしました。
●しかし、本人の独りよがりでおわってしまう小乗仏教ではなく、悟りを世に広め、人を救うために修行しよう。その結果、自らも救われるという大乗仏教がおこりました。その創始者が龍樹なのです。
●そこで考案されたのが「六波羅蜜」(ろくはらみつ)の教えでした。生命エネルギーをしぼませることなく、積極的に意味あるものに使おうという教えでもあります。
六波羅蜜とは六つのことを自分に課すものです。
それは、
1.布施(ふせ)
2.持戒(じかい)
3.忍辱(にんにく)
4.精進(しょうじん)
5.禅定(ぜんじょう)
6.智慧(ちえ)
の六つです。
●「布施」とは、人に施すこと、「持戒」とは、戒律を守って生活をすること、「忍辱」とはたえしのぶこと、「精進」とは努力を惜しまぬこと、「禅定」とは座禅を組むこと、「智慧」とは自分の頭ではなく仏の教えに導かれて行動すること。
●とくに我欲の強い人は積極的に人に「布施」することによって執着から離れようとトレーニングします。
誘惑に負けやすい人は、「持戒」つまり、戒律を守ることを自分に課して気分に流されない自分を作っていきます。怠けやすい人は「精進」つまり、仕事に励むことによって怠け心に打ち勝ちます。
●個人でも会社でも目標を作ることは簡単なことです。しかし、その実現にむけて自らを律していくことは簡単ではありません。
だからこそ、「六波羅蜜」のようなシンプルなトレーニングを課して自己成長をはかり、目標を手に入れるにふさわしい自分をつくっていけば、おのずと目標が向こうからあなたの方に近寄ってくるということなのでしょう。
2011年06月17日(金)更新
目指せ! 辛勝
●今年の日本ダービーはオルフェーヴルが優勝し、皐月賞とあわせて二冠に輝きました。
秋の菊花賞とあわせて三冠馬の夢がひろがり競馬ファンの気持ちは早くも秋に向かっているのかもしれません。
●私は馬券を買いませんが、G1レースの中でも大きいレースはテレビ放送をチェックします。たくさんの馬をみていて分かることは、本当に強い馬はかなり多彩な勝ちパターンを持っているということ。たとえば、圧勝したかとおもうと次のレースでは辛勝したりします。早めに仕掛けて勝ったり、ギリギリまで我慢して後方一気に追い込んで勝ってみたりもします。内枠で勝ったり外枠でも勝ったり、短距離で勝ったり長距離で勝ったり。
要するに特定の勝ちパターンにこだわらないのが本当に強い馬の条件なのかもしれません。
日本ダービーでの勝ち方を見ていて、オフフェーヴルもそんな馬になる可能性があります。
●「勝ち方」といえば、かつて私は山梨に旅行した際、こんな石碑をみつけました。
その石碑は、「武田信玄公訓言」と題されていました。
・・・
凡そ、軍勝五分をもって上となし、七分を中とし、十分をもって下と為す。その故は、五分は励を生し、七分は怠を生し、十分は驕を生するが故、たとえ戦に十分の勝を得るとも驕を生すれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中のこと、其の心がけ肝要奈利。
(山梨県甲州市塩山「恵林寺」の石碑より抜き書き)
・・・
●軍勢は敵方と五分五分が良いというのです。信玄公のこの言葉をみつけたとき、最初はエッ?と疑問を感じたものです。豊臣秀吉の場合は、いつも敵の二倍の勢力を確保して
"もう、これで負けない"と思うようにしてから戦に挑んだ、と聞いていたからです。
●資金があり、人材もある。そんな会社は敵の2倍の兵力を投入し物量作戦で勝利できるのは理屈で分かります。しかし現実は、そんな余裕がないことのほうが多いでしょう。特に中小企業はいつもギリギリの人材と資金のなかで経営しています。
●そんな時には、信玄公の教えのほうが適切なのかもしれません。
「ギリギリ粘って勝った」とか、「達成できるかどうか分からない目標に挑んでどうにか達成できた」というような経験が実力アップにつながり、チームに勢いをつけるのです。
2011年06月10日(金)更新
ちょいワルと日々好日
●ある夕食会で隣にすわった若い経営者に「理想とする経営者像」をたずねてみました。
すると彼は、「う~ん、そうですね。ちょい不良(わる)オヤジになりたいです」という答えが返ってきました。
「エッ?」と聞き返す私に向かって、もう一度彼は、「ちょい不良オヤジって知りませんか? 例えば、タレントのジローラモとか中尾彬なんかがその例だと思うのですが、不良中年という感じで格好良いですよね」
「それが理想像なの?」
「はい、彼らのような中年男になりたいです」
●結局、彼が語ってくれた理想の自分像というのは、外見のことばかりでした。
いかにも中味が乏しい将来像ではありませんか。そこで私はちょっと意地悪な質問をしてみました。
「じゃあ、"ちょい不良オヤジ"と"不良オヤジ"の違いは? ちょい不良がよくて、不良がダメな理由は?」
●彼曰く、「そこそこ不良でそこそこ良い人」というのは「ちょい不良」の定義だそうです。不良までいってしまうと悪人なので、根は善人のちょい不良ぐらいが自分に合っているというのです。
それでは中途半端! と私は彼に言いました。思いっきり不良、もしくは思いっきり善人、その両極が同じ人に同居しているほうが人間の幅が広くて面白いではありませんか。そっちの男を目指そうよ、という話をしました。中庸とは足して二で割った答えではなく、両極を知っていてこそ中庸が選べるのです。
●同じような例として、
「日々是好日(ひびこれこうじつ)」とか「晴耕雨読」などを将来の理想像として掲げる人もありますが、それらの言葉の意味にも誤解があるようです。
●「日々是好日」とは、毎日毎日が良き日でありますように、という願望を表した生やさしい言葉なのではないのです。本来は、厳しく激しい決意表明の言葉なのです。
●日々是好日の本来の意味は、
「私は毎日毎日を良き日にしてみせます。そのためには、今この瞬間瞬間に全身全霊を傾けて命を完全燃焼します」という覚悟と決意を表したものなのです。
●同じく、晴耕雨読だってそうです。
なまけ者がこの言葉を使うときは、
「晴れたら田んぼでも耕し、雨が降ればのんびり本を読む。そんな自然まかせの悠々自適な生き方も悪くない」となります。
ですが、賢者がこの言葉を使うときはこうなります。
「晴れたら野良仕事に精をだし、雨が降れば読書を全力でやる。いつだってどこだって私は全力で今を生きる」
となります。
●「ちょい不良オヤジ」「日々是好日」「晴耕雨読」に限らず言葉には表面的な意味と真意との二つがあります。人と会話するときには、言葉の意味を理解しながら会話したいものです。
2011年05月31日(火)更新
お金より価値あるもの
●「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」とか、「論語と算盤(そろばん)の両立が大切」などを説いた渋沢栄一翁。
氏は、西洋渡来の資本主義に東洋思想の味付けをし、日本独自の資本主義や日本的経営とよばれるものの原型をつくりあげた人です。
「経営者は利益を上げなければならない」とする西洋の考え方にプラスして、「経営者は志をもち、道を究める人でなければならない」という考えも付け加えたと言えましょう。
●ついこの前まで士農工商の士分にいた渋沢たちが、そこいらの商人と一緒にされてはたまらないという誇りのような気分が混じっていたのかもしれません。
それによって日本の経営者は、ビジネスで利益を上げるだけでなく、道を究める人でもあらねばならなくなったわけで、考えようによってはずいぶんハードルがあがってしまいました。しかし、それは実に取り組み甲斐のある挑戦なのです。
●「士」の誇りと「商」の才覚の融合こそ日本的経営。
・理想とする企業を作ること
・理想とする経営者になること
・理想とする経営環境を作ること
その「理想」を明文化する必要が私たちにはあります。当然、その「理想」は借り物ではいけません。自らの言葉で理想を語り、その実現策も語りましょう。
それこそが、かねてより申し上げている「経営マニフェスト」というものの本質だと思うのです。
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