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2013年12月20日(金)更新

評価すべきは継続力

●沖縄の青い空、碧い海が大好きで毎年何度か出かけるようにしている。つい先日も沖縄でセミナーをしてきたのだが、受講者の方にこんな質問をされた。
「武沢さん、私はブログが長続きせずに困っています。武沢さんがあれだけのメルマガを毎日書きつづけられる秘訣は何ですか」
こうした質問は時々受けるが、いつも同じように返答している。
「だってこれが私の仕事ですから」とか、「それくらいしかやってませんから」などと。中には「がんばれ!社長」のことを”ご長寿メルマガ”とよぶ人もいる。たしかに20年しかないインターネットの歴史のなかで14年続いているメルマガなので”ご長寿”なのかもしれないが、私はまだかけ出しのつもりでいる。

●14年間にわたって原稿を書くことができているだけのことで、格段誇るべきことなどない。

吉田松陰さんは「青年の俊才、恃むに足らず」として次のように語っている。
・・・
人が志を立てたという時には、必ず二、三十年くらい実行したのを見届けて、その後、初めてはっきりと信じるべきである。また、認めるべきである。(中略)青年がいくら人並みすぐれた才能をもっているとしても、信頼し、期待するには足りない。誠実なまごころ、これを信頼し、期待するだけである
・・・
(『吉田松陰一日一言』 川口雅昭 編 致知出版社 刊 より)

●年下の教え子に対しても「我が良薬なり」と賛辞をおくりつづけた松陰さんだが、それは信頼と期待の表れにすぎない。本当の意味で、人の実力や価値を評価するには、二、三十年の行動を見なければわからないというのだ。

●ひるがえって今、人が人を評価する、あるいは、人が会社を評価するとき、その評価スパンが短くなりすぎていないだろうか。
・彼はいつも立派なことを言う
・彼女の会社はとても高収益だ
・あの人のビジョンはスケールが大きい
など、短期的な発言や行動、結果で他人や他社を評価しがちだ。

●松陰さんに言わせれば、「がんばれ社長!」が14年続いているくらいは、評価の対象にはならない、となる。その二倍くらいやって、初めて認めてあげようということになるのだろう。
評価スパンが短くなっているだけでなく、行動したことの結果を求めるスピードもどんどん早くなってきた。「このやり方では結果がでない」と、短絡的に結果ばかりを追い求め刺激の強い手段を探していないだろうか。

●ジム通いにしろ、販売促進にしろ、学習にしろ、人材育成にしろ、結果が出るまでには時間がかかる。それも圧倒的な時間が。
前回、「熟す」ということばを紹介したが、本人のなかで熟成するには決意の持続と絶え間ない行動や思索が必要である。また、「煮てない時間が煮物を作る」という言葉があるように、やっている時間だけでなく、やっていない時間に熟成が進むことだってある。

●続けることに意味があるとは言っても、意地になって続けるのではなく、大切なことは、今もその活動に価値を感じ、同時に、楽しみながら行えているかどうかだと私は思う。それさえあれば、二、三十年なんてアッという間だ。

吉田松陰一日一言 

2013年12月06日(金)更新

熟す

●経営計画書をつくり、発表したのだけれどうまくいかない。中身の問題だろうか、それとも発表したあとの社内チェックの問題だろうか、いや、そもそも経営計画書など我社に必要ないのではなかろうか?というような質問や相談を受ける。

●経営計画書さえ作れば会社は変わるはずと即効薬としてのはたらきを期待しておられるのだろうが、料理や酒と一緒で熟成させるための時間が必要である。
個人でも志を立てることは簡単だ。夢を語ることも誰だってできるだろう。大切なことは、志に生きることであり、それには「熟」すことが肝要なのである。

●新潟県長岡市に「河井継之助記念館」がオープンした年に私はさっそく行ってきた。なにしろ司馬遼太郎の小説『峠』の主人公として日本中にファンをもつ河井継之助。平日の午後だというのに小さい記念館の中は人が絶えることがない。新築ということで、建材のにおいが濃くのこるなか、継之助の手紙や遺品の数々を見ているうちにあっという間に三時間ほど過ごしてしまった。

河井継之助記念館
 

●ここに来て分かったことが幾つかある。『峠』で司馬遼太郎が書かなかった河井像が浮かび上がる。

その1.河井は勉強熱心だった
『峠』によれば、河井は江戸の古賀塾に学んだものの、どちらかというと不良学生であった部分を強調して書いているが、むしろ苦学生であったようだ。河井は他の塾生と同じように行動するのを好まなかっただけで、向学心は誰よりも強かったはずだ。その証拠に塾生が寝静まってから「これだ!」と決めた本を何冊も筆写している。

その2.河井は吉田松陰からも学んでいた
その筆写本の中に吉田松陰の著作として名高い『孔孟余話』が入っている。小説『峠』の中では、吉田松陰の愛弟子の吉田稔麿(よしだ としまろ)と東海道で会話する場面があるが、実際には、松陰と継之助はもう少し濃厚な関係があったのかもしれない。

●彫るように書く、文字が立ってくるほどに書く、それが河井流であったらしい。記念館でみた直筆の筆写本は、一文字一文字を彫刻刀で彫り刻むようにして書いてある。わずか一文字といえどもゆるがせにしないという気迫で書き写しているのだ。

●今とは違ってこの時代は、書物が簡単に買える時代ではなかった。書き写すことは当時の教養人のごく一般的な学習法だったのだが、それでも河井の特徴は、『峠』に出てくる次のひとことで察することができよう。
・・・
私は気に入った書物しか読まない。そういう書物があれば何度も読む。会心のところに至れば百度も読む、と、そういうふうなことを、継之助はひくい声でいった。(松陰先生に似ている)と、稔麿はおもった。
・・・

●「松陰」(しょういん)というのは松下村塾で維新の志士たちをたくさん育てたあの吉田松陰のことだが、彼はこのような言葉を残している。

・・・
今、人々が学んでいる四書五経は、孔子、孟子が説いた教えを記したものである。それなのに、善の善なる境地に達することができないのは、「熟」という一字を欠いているからである。「熟」とは、口で読み、読んで熟さないなら、思索、つまり物事のすじみちを立てて深く心で考え、思索しても熟さないならば行動する。行動して、また、思索し、思索してまた読む。本当にこのように努力すれば、「熟」して善の善なる境地に達することは疑いないことである。
・・・

経営計画書に書いてある様々な思いや願いを「熟」していくための継続的な取り組みが会社のなかに必要なのである。

2013年11月14日(木)更新

現金の迫力

●岐阜県の食品卸し会社「D」のD社長は、社長就任早々、銀行の協力を得てある実験をした。
D社では毎月の売上高が約3,000万円、原価(仕入れ)が2,400万円、粗利益が600万円、毎月の経費が550万円、毎月の営業利益が50万円というのが平均的状況だった。

●ある実験とは、昼の休憩時に13名の社員・パート全員を会議室に集め、テーブルの上に現金3,000万円を積み上げたものを見せることからはじまった。しかもあえて真っ新なピン札ではなく、使い込まれた一万円紙幣だけできっちり3,000枚が積み上げられているので、相当なボリューム感だ。

●「うわあ、何ですかこれ。山分けですか」とはしゃぐ社員がいる中、D社長は「そうや、山分けするんや」と言った。さらに、「いや、すでに毎月山分けしとるんや。ただ、その実感をみんなに伝えたくて集まってもらった」と続けた。

●「ここにある現金はなぁ、みんなが毎月働いてうちの会社が売り上げた一ヶ月分の売上や。まず、この売上の中から業者さんに支払っているうちの仕入れ分がこの中の2,400万円」とまず、その分の金額を横へずらした。
次に、残った600万円のうち、毎月支出している550万円を横へずらした。
「これはうちが毎月使ってる経費550万や」そして、ぽつんと残った50万円を手にとってD社長は、「これが毎月の会社の利益や。いや、正確に言うとこの半分は税金や。だから25万円だけ、これだけがうちの会社の儲けや」人差し指と親指の二本だけで軽くつまめる厚みになってしまった。

●「でもなみんな、この25万円も銀行さんの借金返済にすべてが回っていくので、会社としては一円も残らないのが現状や。お恥ずかしい話だが、うちは、ひ弱い体の会社でしかないというのが現実だ。だが、これからはきっちりと蓄えて、頑丈な体の会社にしていきたい。それが僕の希望であり、会社としての方針や」

●「ここでちょっと考えてみようや。このテーブルの上に乗っかってる3千万をもっと上手に使うことが出来たら、もっと会社の利益が残ると思わへんか。そしたら、もっとみんなへの分け前も増えるとおもわへんか?」「思う」「思う」と社員たち。社員の感覚としては、この中のたった一枚でも自分のものとして分け前が増えればうれしいのが本音だろう。

●「じゃ今からちょっと作戦会議や」と、社員一人一人に紙を一枚渡した。毎月の損益計算書をカラーで見やすくした表だ。

それを見ながらD社長は、「まず一番大きな山である"仕入れ代金2,400万円の支払い"、これはどうしたらええ?」と水を向ける。「まけてもらいましょう」「いや、一方的にまけろと言っても通らないだろ」など、ひとしきり議論がある。

●「次にこの経費550万円の使いみちやけど、現状は、そのうち約400万円が人件費や。つまりみんなの給料や社会保険、それに賞与に回るお金を足すと、ざっと400万円になる。あと、家賃がこれだけ、交通費がこれくらいっと、光熱費がこれだけかかってるし、通信費がおおむねこれだけ・・・」という具合に現金を動かして説明していくので迫力充分だ。これだけの大金を見るのは初めてという社員ばかりで、中には、ゴクッとつばを飲み込んで話を聞く社員もいた。

●最後にD社長はこう締めた。「今日は銀行さんのご協力を得て、会社の動きを現金でみんなに見てもらうことができた。毎月こんなことが出来るわけやない。これからは毎月一回、みんなに紙で配って経営報告会をやる。その時に、みんなの意見や知恵を聞かせてもらいたいと思っているのでよろしく」

●このミーティング直後、D社長は銀行マンとある打ち合わせを行った。それは銀行口座の管理方法についてなのだが、それは次回に続く予定。


 

2013年11月08日(金)更新

私の抵抗勢力

●数年前の「小泉改革」のときに話題になった「抵抗勢力」という言葉にはものすごいインパクトがあった。
若手議員のみならず、中堅もベテランも問わない。とにかく郵政民営化に反対した議員には皆、「抵抗勢力」のレッテルを貼って自民党から放逐した。抵抗勢力の彼らがスケープゴートになって自民党内の結束を高め、国民に向かっても「改革の火を消すな」という姿勢を鮮明にした。

●「抵抗勢力」つまり仮想敵を明確にすることには効果がある。
あなたの今の改革テーマは何だろう。その改革の妨げになるような「抵抗勢力」は何だろう。それを明確にしておくことで、今までとはひと味違う成果を上げることができるはずだ。

●私的な話題で恐縮だが、ある年のこと、『肉体改造から始まる今年のスタートダッシュ!』をスローガンにして徹底的に体を絞り上げようという目標を掲げた。
まずは、ジム(又はヨガ)に通うという習慣づくりと、毎日汗を流す気持ちよさを味わうことを主眼に据えた。「週二回のジムなんて生ぬるい。毎日ジムだ!」というわけだ。
それだけでなく、徹底した小食によって胃袋のサイズを小さくしてしまう計画もたてた。そして実行し始めた。1月3日からジムに通い始め、最初の一週間で10回ジムまたはヨガへ通った。やるならとことんクレイジーにならねば。改革に躊躇やためらいは不要だ。やるならトコトンなのだ。

●だが、二週目あたりから「抵抗勢力」がジャマをし始めた。それは、私の心の中の「抵抗勢力」で、こんなことを私に向かってささやくのだ。
・やり過ぎだろ、いくらなんでも。スポーツマンじゃないんだから、体を痛めてまで運動するなんてナンセンスだ。
・過ぎたるは及ばざるがごとしと言うじゃないか、休むのもトレーニングの一部のはずだ。
・自分の年令を考えろ、いい年して毎朝ジムへ通い出して、仕事をどうする気だ?まずは仕事だろう。

そういえば、左肩が痛いし、膝にも違和感を感じる。これらはいずれもが朝、ジムに行く前の抵抗勢力だ。

●仕事が佳境に入り出した午後になると別の抵抗勢力が表れる。
・おまえは早起きしてジムへ行ったんだから無理すんなよ。今は肉体改造がメインなんだろ、だったら仕事は少しスローダウンしろよ。
・明朝もジムに行くのだろう?だったら仕事はその辺で切り上げて、さっさとウチへ帰ろうよ。家族がみんな君の帰りを待ってるよ。

●とんでもない。肉体改造は良い仕事をするためにやるものだ。仕事の妥協なんてしない。ジムもヨガも仕事もどれひとつ手抜きなどしない。正確に言えば、すべての活動を楽しみ、満喫するために今月の旗印を掲げているのだ。

●体が悲鳴を上げているのならペースダウンも必要だろうが、悲鳴を上げているのは心の抵抗勢力の方だ。
こんなときは、もっとペースアップしてやろう。自分に無理を強いて、まずは心の抵抗勢力(甘え)を駆逐することが必要だと突っ走った。
結局、二ヶ月後、膝の違和感が現実の膝痛になり、プール歩行を中心にした穏やかなメニューにはなったものの、改革初期の抵抗勢力には打ち勝つことができ、半年で18キロ減量に成功することができたのである。

2013年10月25日(金)更新

勝因は逃げなかったこと

●長沢社長(仮名)47才。家業の土木業を継いで7年めになる。本来なら兄が家業を継ぐはずだったが、外国で結婚し、現地で起業してしまった。それは父にとっても弟の長沢にとっても、よもやの出来事だった。さらにその一年後、父が急逝した。

●葬儀のとき、長沢の母が「おまえがお父さんのあとを継いでくれないかい」と長沢に頼みこんだ。大手ガス会社で人事畑をあゆんでいた長沢だったが、自分に白羽の矢が立つことはこの時点ですでに覚悟していたという。

●長沢は引き受けた。だが、父のまねはできないと思っていた。創業者である父は、職人たちを魅了してやまない人間味あふれる親分肌であり、同時にMBAこそ取得していないものの、語学堪能なエリートでもあった。正直、そんな偉大な父のまねをしたくとも出来ない。

●「自分は自分の器以上のことは出来ない。やれることをやるだけだ」長沢は真摯に働き、努力し、幹部や社員の意見を聞いてまわった。だが、最初の1~2年は勉強だけに明け暮れたようだ。
社長ってなんだ?経営ってなんだ?社長業の孤独も味わった。長沢が「粗利益を改善して20%を目指しましょう」とか、「受注価格も決まらずに仕事を受けるのはやめましょう」などと方針をだしても、誰一人それを本気に実行する者がいなかった。長沢の思いは空回りしつづけた。

●正直言って長沢も建築土木の世界は好きではなかった。とくに、職人たちの「同じ釜のメシを喰ってきた人間だけを大切にする」というような文化にとまどいを覚え、社内の人間関係にとけ込めなかった。
できるものなら逃げたかったが、それが許される状況ではない。幸い肝臓が丈夫な長沢は、積極的に社員を居酒屋に誘い出し、連日酒をふるまいながら意見を交換した。

●一年ほどたったころ、若手リーダー格の江藤(30才)が長沢の人柄と方針をはっきり支持してくれるようになった。その江藤がオピニオンリーダーとなり、若手の多くが長沢の方針を支持するようになっていった。
社長就任4年目から始めた新卒学生の採用は、最初のうちこそ一人も採用できなかったが、去年と今年、2名ずつ採用できるようになった。

●今では長沢の経営に懐疑的だった不満分子は一人もいない。先代社長に仕えていた古参部下も数人残っているが、みな二代目長沢をリーダーとして認めている。
長沢は語る。
「この業界のことをまったく知らない人間に社長がつとまるかどうか不安でしたが、今思えば、業界の常識をしらないのが幸いしています。社内に無理難題を言えるのも、自分が現場を知らないから。大切なことは逃げないことです。ファイティングポーズをとり続けることです。酒に逃げない、遊びに逃げない、趣味に逃げない、権力に逃げない。いつも一番いやで面倒なことに立ち向かうようにしてきたつもりです。会社経営のあるべき姿は業界が違えど変わらないもので、私は同業他社よりも異業種や他国の経営事例、それに歴史のほうが参考になると思っています。父のまねはできませんが、自分流の社長にはなれると思います。こんな私ができたのだから、中学生になる我が息子だったらもっと出来るはず。キーワードは、『逃げないこと』だと子ども達に言っています」
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