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2011年12月16日(金)更新

集客成功マニュアル

 

集客という行為を甘くみているのではないかと思うことがあります。

集客は、たくさんあるあなたの仕事の一部分なのではなく、全部だと思ってみてください。それが本業の集客であろうと、交流会の集客であろと、PTAの会合であろうと、引き受けた集客は全うさせるのが仕事というものです。従って、いかなる種の集客であっても、集客力はあなたの実力そのものであるということです。

 

セミナーや講演会、イベントへの集客に失敗した理由を尋ねてみると、毎回いろんな言い訳を聞くことができます。

 

・本業が忙しくて集客に手が回らなかった

・告知用のホームページ作りに手間取り、集客開始が遅れた

・開催日(時間)の設定を誤った

・風邪で一週間寝込んだのが響いた・・・

などなど。

 

しかし、言い訳をいくら並べても今後の集客力向上につながりません。

毎回の体験をもとに、そのつどノウハウを貯めていくべきでしょう。そこで今日は、集客力アップについて、心構えと技術の両面から考えてみることにしましょう。

 

《主催者にとっての集客力向上、心構え編》

 

1.集客は余分な仕事ではない。一番大切な仕事と心得るべし。

 

2.イベントの集客は協力者不在では成功しない。一人で抱え込むのではなく、集客の初期段階で協力者との信頼関係を作るべし。

 

3.集客の状況は、マメに報告・連絡・相談すべし。特に協力者に対しては逐一報告を入れることや、参加申込みしてくれたお客にも協力依頼するなど、集客への情熱を周囲に発信させ続けるべし。

 

4.取らぬ狸の皮算用をしないあのメルマガの告知で何人、あの人の一声で何人、などの数を合計してもその通りにならない場合が多い。むしろそうした計算で妙な安心感をもつと、集客行動が怠慢になることがある。

 

5.あなたのブランド保持のためにも、少なくとも一週間前には、「完売!」、「満席御礼!」、「キャンセル待ち」、「次回優先案内受付」など、実際に満席にして集客を打ち切るべし。いつまでも「受付中!」にしない。

 

以上が心構えで、次はテクニカルな面をみてみよう。

 

《主催者にとっての集客力向上、テクニカル編》

 

1.集客計画を作るべし

 ・日割りの集客目標を決め、誤差を毎日チェックする

 ・イベント開催日の一週間前には集客目標を達成する計画を作る。イベント前日とか当日に告知して
 いるようでは、ジタバタしているように周囲に思わせるだけだ。

 

 

2.ゴリヤクを明確にすべし

 このイベントに参加すると、

 ・誰にとって

 ・どのようなゴリヤクがあるか

 ・またなぜそう言えるのかを紙に書くべし。

 これを具体的に書くことができれば、おのずと対象者や協力者にそれを伝えやすくなる。これが、漠

 然としていたら相手も理解してくれない。当然、ホームページやチラシでもそれを明確にする。講演

 会やセミナーであれば、講師がどのような内容の話をするのか(レジメ)も可能な限り具体的に書
 く。

 

3.始動を早めるべし

 ・始動が早すぎて失敗することなどない。始動が早ければそれだけ告知期間が長くなる訳だから集客

 に有利となる。

 特に先々まで予定が入りやすい経営者やビジネスマンがメインターゲットの場合、最低でも二ヶ月前

 には集客を始めないと先約が入ってしまう。

 ・告知が早いだけでなく、実際上の参加申込み受付も早めるべし。告知だけして、「集客受付はまた

 後日」では意味がない。告知したその場でクロージングすべし。

 

4.露出計画・・・告知手段を多様化する

 ・幹事のメルマガやブログでの告知

 ・協力者のメルマガやブログでの告知

 ・チラシ配布

 ・有料の広告宣伝(雑誌や新聞掲載)

 ・無料のパブリシティ(マスコミ、ミニコミ、官公庁)など、デジタルとアナログを使い分けること

 と、露出媒体の多様化で一人でも多くのユニークユーザーに告知する。

 

5.熱意ある告知

 ・例としてメルマガ「がんばれ社長!」のセミナー集客効果について考える。

 私自身がそのイベントをどれだけすごいかと思えるかによって、紹介文章の熱に差が出る。自分も参

 加したいほどすごいイベントの場合は、それが読者にも伝わるので、配信部数の0.3%(100人)近い

 集客が一回の配信で可能になる場合もある。また、義理で告知協力するだけならば、0.01%(3人)

 程度だろう。告知に同じスペースを使っても何十倍もの差がでるということだ。以上のパーセンテー

 ジ×告知回数なのだが、二度目三度目の告知になると、それも徐々に下がっていくと考えよう。した
 がって、自分以外のメルマガ作者やブロガーに告知協力をお願いするときには、真剣にその協力者に
 売り込まねばならない。

 

 

以上は、私が考える「集客力向上マニュアル」だが、あとは、あなたの叡智をかたむけてこれを肉付けし、完成させてほしい。あとはその都度、これを実践補強していくだけである。

 

2011年12月09日(金)更新

おやじさんとO社長

●私の名古屋オフィスから徒歩30秒にある行きつけのそば屋が閉店しました。おやじさんが最近痩せてきて、体調を心配していたところだったのですが、後継者対策もままならないままシャッターが降ろされて一ヶ月、貼り紙もありません。
 
●うまいものを客に食わせて納得させるのが職人。このそば屋の近所に同業のチェーン店が出来たときも、隣にラーメン屋が出来たときも、このお店の主人は微動だにしませんでした。実に堂々たるもので、それが職人の意地とワザだとでもいいたそうでした。完璧なおやじさんだったのですが、経営者としてはどうだったのでしょうか。
 
●できるものならば、せっかく店を手伝ってくれていた二人の息子に継がせたかったのではないでしょうか。
店内で親子が言い争いをする場面をよく見ました。決して仲は良くないようでしたが、腹を割ってお店の今後について話し合ったことがあったかどうか。
 
●コンサルタントとして、お客として、いや、おやじさんが作るたぬきそば、おかめとじうどん、カレーうどんのファンとして、もう食べられなくなるのがあまりに悔しい。大げさかもしれないが、人生の損失と思えるのです。
 
●「機械設計の職人から経営のプロへ」
今から3年前、機械設計事務所のO設計のO社長が高らかにそう宣言しました。愛知県の大メーカーの機械設計室から独立し20年になります。当時、10名程度の社員を抱える設計事務所として高級車に乗ってゴルフ場に通えるほどにO社長はある程度成功していました。
 
●しかし、O社長はある日、悟ります。
「このままじゃ、街のそば屋と同じで一代限りの成功じゃないか」
O社長は、武沢が主催する「経営講座」の門をたたきました。
 
●やがて O社長はビジョンを定め、それを経営計画書として完成させました。今まで中途採用一本だった求人を新卒学生採用にも切り替えていきました。O社長の会社は変わり始めました。社長が社内にいなくても、組織として会社が回りだしました。人が育ち、業績も急激に伸びました。
 
●ついに36名の社員数までになったO社長は、3年前より今の方が若々しくみえます。
 
閉店してしまったそば屋のおやじさんとO社長とは、さほど年齢が変わらないはず。
そば屋のおやじさんの元気が回復し、志さえ立てれば、彼もまだまだ現役の経営者としてやるべきことがたくさん残っているはずです。
 
がんばれ! そば屋の親父
 
 

2011年11月18日(金)更新

事故の歴史展示館

●「忘れかけたころにドカーンとくる」と語るのは住宅会社を経営するA社長。この会社では、2~3年に一回とてもシリアス(深刻)なミスを犯し、その都度会社をあげて大騒動になるそうです。
どの程度シリアスなミスかというと、
 
・図面と実際とで南北が真逆の家を建ててしまう
・他人の敷地まで入り込んだ図面で工事を始める
 
など、部外者がみても「あり得ない」ほど初歩的かつ致命的なミスをやってしまうのです。
歴史は繰り返すといいますが、最近もありました。
 
●それは、協力会社の水道管工事でのミスでした。二階トイレの水道管に一箇所だけバルブの締め忘れがあったため、家主が長期不在の連休中にそこから水が漏れ続け、階下の天井から床が水浸し。それだけでなく、家電製品やクローゼットの衣料、ピアノなども全部水浸しになってしまったそうです。
 
●示談金として「損害額+慰謝料」で解決しようとする会社に対し、家主側は逆上。建物の解体建て替え+慰謝料を請求しました。訴訟に発展しそうな雲行きだといいます。
引き渡し時には大喜びされ、いたく感謝しておられた家主だけに、半月後にこのような事になるとは・・・。
 
●歴史ある住宅会社なのですが、今でも時々このようなシリアスなミスが発生するそうです。これはやむを得ないことなのでしょうか。ビジネスにおいてやむを得ないことなどひとつもないのです。
 
●過去のミスや失敗からきちんと何かを学習し、対策を講じてきたらミスは撲滅できるのです。ミスへの対処に追われて、なぜミスが起きたのか、どうしたら今後ミスがなくなるのかを真剣に考えてこなかった結果が今日のミスにつながっているのです。
 
●「失敗を風化させてはならない」といえば、失敗の展示館を作っている会社もあります。
JR東日本もそのひとつで、過去の事故の教訓を風化させないために2002年に福島県白河市にある同社の総合研修センター内に「事故の歴史展示館」を開設しました。
 
●この展示館では、事故現場のパネル写真、直接要因、経過、状況、新聞報道、その後の対策などについて展示。信号無視、災害など原因別に25の事故の紹介もされています。事故の重大さ、社会的責任を実感させるため、報道と被害者の証言コーナーもあって、"これでもか" というくらい生々しく過去を今に伝えているのです。
 
●当然、これはJR社員の安全意識を高めることを目的としたものですが、毎日の標準化された現場作業のやり方は、すべてこうした過去の失敗や成功の体験から抽出されたエッセンスなのだということを思い起こすことに役立っていることでしょう。
 
あなたの会社の「事故の歴史展示」はどんなものになるでしょう。
文書やメール、画像や動画をつかって生々しく記録し、二度とあんな失敗はしないぞという決意に固めるのに役立てたいものです。

 

2011年11月04日(金)更新

“あきらめの蔦”から”攻めダルマ”に

●先日、ある経営者の方からメールを頂戴しました。
 
「今日から私は新しい名前、○○○○になりました。よろしくお願いします」とありました。下の名前はもちろんのこと、苗字までもがまったく新しいものに変わっていたのです。
 
ペンネーム、ビジネスネームなのか、本当に戸籍の名前も変えてしまったのかは分かりません。
 
●改名は昔から行われてきていて、古くは新約聖書のペテロがそうです。
 
彼はキリスト・イエスに出会うまでは漁師をしていました。そのころはシモン(葦)という名で、イエスにこんなことを言っています。
 
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
 
すると、イエスは「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」とシモンに言っています。
 
●このあともイエスに付き従って、時々軽はずみにも意味のないことを口走ったり有頂天になったりするシモンですが、あるときイエスは、「あなたは今日からシモンではない。ペテロ(岩)だ」と新しい名を与えます。そこからペテロの伝道師としての新しく力強い歴史がスタートし、やがて大聖人の一人になるのです。
 
●名前こそ変えなくとも、古くて弱い自己像をたたきこわし、新しい自分像をつくったおかげで成功した人はたくさんいます。
 
徳島県立池田高校野球部の元監督、蔦 文也(つた ふみや、1923年 - 2001年)さんもそのお一人でしょう。
 
●蔦さんは、昭和27年に池田高校の野球部監督に就任しています。以来、まったく無名の同校を、四国大会の常連校にするまでに10年を要しました。しかし、そこから悲願の甲子園初出場までには、もう10年の歳月を必要としています。いつもあと一歩、ここ一番というところで負けてしまうのです。
 
●後に相手校から "攻めダルマ" とおそれられる蔦監督も、50才台までは"あきらめの蔦"を自認していたそうです。勝利の執念にまったく乏しい監督だったというのです。
 
「私のようなお人好しタイプが大事な試合で勝てないのは当たり前だ。選手がミスを犯すのも、この性格が乗り移るからだ。甲子園まであと一歩と迫っても、この性格が運命を呼んでしまう。結局、負けるのは私の宿命なのだ。気の小さいワシが監督をしている限り、絶対に池田高校は甲子園に出場できない」
 
そう蔦監督は思いこんでいました。
(『攻めダルマの教育論 蔦流・若者の鍛え方』ごま書房 より)
 
●実は当時、池田高校野球部は、存続か廃部かの瀬戸際に追いつめられていました。池田高校から商業科がなくなり、普通科一本になったからです。野球部生徒は、商業科が多かったため、おのずと野球部の存続はむずかしくなっていたわけです。
 
そのラストチャンスともいえる年、奇跡はおきました。
 
●南四国大会決勝、徳島商戦。
 
池田高校は初回いきなり0-3とリードされ、そのまま試合は淡々と進んでいきます。
 
以下は、蔦監督の言葉です。
 
・・・
「またか!」と嫌な予感が胸をよぎった。そして、「あー、もう負けた。もうあかん。」とベンチで私がつぶやいた。生来のあきらめの早さが出たのだ。なんといっても、『あきらめの蔦』と呼ばれる私である。
そのときである。横にいた元木部長が怒鳴った。
『イカン!蔦はん。勝負事は最後まであきらめたらイカン』
『アホいうな。3対0で負けておるのに、どうして勝てるんじゃ。アカン、アカン。もう帰り支度じゃ」
 
私はすっかり試合を投げてしまっていた。そうこうしているうち、ヒットエンドランが決まり、4番の峰川に中前タイムリーが出て2点入った。
3対2だ。元木先生は、『みてみなはれ。ワシのいうとおりじゃ。こりゃいけまっせ。」
 
4-4のまま延長へ。そして10回裏、サヨナラ勝ちした。」
・・・
 
●「性格というのは恐ろしい。強気でしっかりしている男は、他人にまで幸運をもたらす。私のように弱気な男は、逆に臆病が選手に伝わり、揚げ句の果てに、負けを呼び込んでしまう」
 
蔦監督はこの日以来、自分の性格と向き合い、弱さを克服しようと性格改造に乗り出しました。
 
●シモン(葦)という本名から生来の気弱さを見抜かれ、イエスに「あなたは岩(ペテロ)だ」と言われ、後に大聖人となったシモン。
 
「あきらめの蔦」が「攻めダルマ」に変身したのもある試合の体験から。自らの弱さと向き合い、それを克服するのに才能や年齢は関係ありません。意思ときっかけがあれば、誰だってできるはずなのです。

 

2011年10月21日(金)更新

金策日記

●「お金がないということがどういうことなのかピンとこない」と五代目社長のAさん。
彼は生まれてから今まで、一度もお金に困ったことがないそうです。プライベートでも会社経営でもお金に困らないなんて、何とうらやましい。
私の場合、人生の半分はお金に困っていました。ですから、お金に困ったことがない人はいったい何に困るんだろうと思ってしまいます。
 
●親として、お金の苦労を子供にはさせたくないと考える人がいますが私はそれには反対です。お金に苦労させることは決して悪いことではありません。人の痛みや辛さが分かるようになるのです。
 
●あの坂本竜馬も、ずっとお金に困っていたという話を聞いたことがおありでしょうか?暗殺される直前まで、15両(約75万円)の金を友人に無心するほどいつもお金がなかったという記録もあります。
 
●竜馬は姉に宛てた手紙で「男が一年間暮らしていくには、どうしても六十両必要」と書いています。
一両の価値は時代によって変化しますが、幕末はおおむね一両が五万円程度でしょう。
土佐藩から支給される海援隊士の給料が月五両(25万円)なので、それで男は生活費トントンということです。
 
●維新回天の原動力となるほどの働きをした坂本竜馬ですが、ずっとお金には苦労していたとは意外でした。
彼が一声かければ、豪商や諸藩の殿様からいくらでも金が集められたように思えますが、それは幻想のようです。
 
●『龍馬の金策日記』(竹下倫一著、祥伝社新書)という本があります。
脱藩浪士の身分でありながら、いったいどのようにしてあのような東奔西走の志士活動が可能だったのか?特に資金面のことが気になっていた方にはおすすめの本です。
 
これを読むと、大変興味深い事実が幾つか浮かび上がってきます。
 
竜馬がゆく』で司馬遼太郎が描いた竜馬とはまったく別の、現実的な彼の一面が見えてくるのです。
 
いわく、
 
・脱藩時に竜馬が持参していた金は20~30両(100万円~150万円)。
かき集めた金とはいえ、せいぜい半年の生活費です。しかも案の定、脱藩四ヶ月後に竜馬は大坂でかなり生活に困窮していますし、飲まず喰わずの生活をしていた時期もあるようです。
 
・この時代は、刀が財産価値をもつようになっていました。実際、竜馬が持っていた刀も20~30両程度の価値があったとされ、それが質草になっています。彼が刀の柄を売ってしまったという記録も残っています。
 
・脱藩して一年近くたち、江戸で勝海舟に弟子入りしてからようやく生活が安定しましたが、それもつかの間でした。
 
・勝の海軍塾設立費用のうち、竜馬ら3名で50両をネコババした。それが発覚して「貸付金」で処理されましたが、結局返していないようです。
 
・新撰組の元になる「浪士隊」の最初の隊士候補メンバー12名に、竜馬の名前もありました。江戸デビュー当時の竜馬は剣術で名を馳せていただけに、竜馬が新撰組の局長になりうる可能性もあったのです。さすれば、維新はなかった?
 
・何をするにしても、まず概算費用を計算し、その調達方法も考えるという発想法は当時の武士には珍しい。竜馬はそうした発想法を、勝海舟から学んだようです。勝自身も若いころ、師から貴重なオランダ語辞書を借りてきて必死に二冊筆写し、一冊を売って30両得ているしたたかさをもっていました。
 
・今から思えば商売ベタの竜馬。亀山社中創立一年で65億円程度の武器取り引きを成立させているのに、斡旋手数料をまったく取っていません。せめて3%ほども取っていれば、2億円もの自己資金になったのに・・・。結果論ですが、後になって亀山社中は困窮し身売りしています。
 
●いかがでしょう。意外な竜馬の一面がこの本に綴られています。しかし、こんなことで竜馬の魅力が下がるわけではありません。
それどころか、人を魅了してやまない彼の人間力があったからこそ、資金的バックボーンが脆弱でも大業が果たせたのではないでしょうか。
 
 
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