ブログ個人トップ | 経営者会報 (社長ブログ)
社長業を極めるためのカリキュラムについて、「日本的経営のリニューアル」という視点から紹介します
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2011年10月14日(金)更新
臨済の喝
●中国のある街で工場見学をした時のことです。
我々一行をご案内いただいた社長が、突如、大声で「オイ、こらっ!」と怒鳴ったのです。そのあと、作業員に近づき、「その右足、危ないだろうが。この台に乗っけて作業せんかい!」と身ぶり手ぶりを交えて真剣に叱っています。
「こらっ!」以外は全部中国語でしたが、その迫力に作業員の中国人男性も圧倒されているのが分かりました。
●工場見学を終えて会議室に戻るなり私は、「すごくよく通るお声でしたね」と水を向けてみました。すると、「あの作業方法ではいつか怪我をすると思い注意しました。工場の騒音の中でも私の声は一番よく通るから便利です。特に、教えたことと違ったことが現場で行なわれていると、たとえそれが静かな場所であっても、つい『こらっ!』と大声を出すのが私の流儀ですけど」とのことでした。
●ものごとを真剣に教えるときには、「大声で叱りとばす」という方法があります。
大声でその場で叱れる上司は貴重な存在です。感情によって大声を発するのではなく、相手の目を覚まさせるための一喝が大切なのです。
●一喝といえば。
中国唐代末の禅僧で後に臨済宗の開祖ともなる臨済義玄(?~867)。
彼の一種独特な指導法がのちに、ひとつのスタイルとして確立することとなりました。それが「喝」を用いた指導なのです。
「喝」とは、一瞬の大声を出すことですが、単なる大声ではありません。臨済は、修行者を指導する手段として、四種類の喝を使い分けていたというのです。
1.有時一喝如金剛王宝剣
ある時の一喝は、金剛王宝剣(こんこうおうほうけん)の如く。金剛王宝剣は堅く、鋭利であり、どんなものでも一刀両断にすることができるように、この一喝は、迷いや妄想を断ち切る一喝だ。
2.有時一喝如踞地金毛獅子
ある時の一喝は、据地金毛(こじきんもう)の獅子の如く。百獣の王で金毛の獅子が、地面にうずくまり獲物にとびかかろうとした姿は、底知れぬ威力を秘めて周囲を威圧します。このような一喝は、寄りつくスキもない威力をもった一喝なのです。
3.有時一喝如探竿影草
ある時の一喝は、探竿影草(たんかんようぞう)の如く。探竿とは、竿の先に鵜の羽根をつけたもので、水中を探って魚を浮草(影草)の下に集めて捕る魚具をいいます。つまり、相手の様子をうかがいながら一喝し、本物か偽物かをみる喝です。
4.有時一喝不作一喝用
ある時の一喝は、一喝の用(ゆう)を作(な)さず。これは自然のまま、何の造作も意図も加えない一喝。これこそ、無喝の喝ともいうべき最上級の喝と言われるものです。
●書物による求道や、道徳的戒律を求めない禅にあっては、悟りの境地を持つ指導者から発せられるこれらの「喝」こそ最高の教材であり、修行者の心に迫るものだったのでしょう。
言葉や文字で優しく教える指導法だけでは限界があります。そのとき、たった一言「か~つ!」と発すれば済むような部下や後輩を育成していくこともひとつの人材育成に関する指標になるかもしれません。
2011年10月07日(金)更新
“今”を大切にする
●2006年から日本でも「四半期配当」ができるようになりました。
ホンダなど一部の企業がさっそく導入し、証券会社では「四半期配当銘柄」を組み合わせたファンドを売り出すなど話題作りにも力が入っていました。その後、この話題はあまり大きく取り上げられることはありませんが、ジリジリと「四半期配当」を導入する企業が増えていくのではないでしょうか。
●日本企業は欧米に比べて中長期的な視点で経営を行い、目先の利益に固執しないのが特色とされました。しかしこれからは、徐々に変わって日本でも株主に対してスピーディな利益還元をする必要がありそうです。
四半期配当の導入は、すなわち長期の視点も押さえながらも3ヶ月単位で利益目標を達成し株主に還元するという、経営者にとっては厳しいチャレンジの始まりです。
●先日、ある経営者とこんなやりとりをしたのを思い出します。
「武沢さん、"400年存続できる会社を作る"というのを我社の企業目的にしたいのですが、どう思われますか?」と聞かれたのです。私は「あまり意味がないと思うよ」とお答えしました。
なぜなら、人間と同じで長寿であることそのものにはあまり大した価値がないと思うからです。「どれだけ生きたか」より「どのように生きたか」が大切なのではないでしょうか。
●400年後に会社があるかないかを気にしていては今がおろそかになります。長寿の会社は長寿を目標にしたのではなく、その時その時を真剣に生きた結果として長寿になったという、ただそれだけのはずです。
●倫理研究所の創設者である丸山敏雄氏は、次のようなことを述べています。
「修行でも習い事でも何でも、毎日続けるという目標を持つことは間違いだ。大切なのは、今日一生懸命やることだ」
●私も日刊メルマガを発行して11年になりますが、11年前に「よし今日からメルマガを11年間毎日書こう」なんてこれっぽっちも考えませんでした。
「今日、一本書く」ということに集中した結果に過ぎません。明日や明後日や来月来年のことは考えずに書いてきました。明日もそうするつもりです。
●やるべきことを今日やる。それは半年後、一年後を視野に入れて計画的にやるのでなく、この瞬間に完全燃焼する。日々全力を尽くす。今日が人生最後の一日だと思ってやる、そうやって今を大切にしていくことではじめて、うれしい明日がやってくるのだと思います。
2011年09月28日(水)更新
アクバルとビルバル
●インド・ムガール王朝第三代皇帝アクバルは戦場で生まれました。
当時のインドは戦国時代であり、学芸に親しむひまがまったくない武人中心の時代でもあったようです。そのせいか、皇帝アクバルは学芸に関心が厚く、学者を尊敬していました。
側近にビルバルという面白い学者がいて、そのビルバルと皇帝アクバルとの逸話が沢山残されています。
●逸話その1
宮廷に国中の賢人を集め、壁に一本の線を引いて皇帝アクバルはこう言いました。
「誰か、この線に触れることなく、それを短くできる者はいないか?」
賢人たちは皆押し黙ったまま誰もできないでいました。そこへビルバルが登場しました。
ビルバルが行ったある行為を見て宮廷内はどよめきました。皇帝が出した問いの本質を見抜き、ビルバルがみごと正解したのです。
あなたならどうしますか?
●長い短い、大きい小さい、有名無名、大物小物、上手下手、うまいまずい、はすべて相対的なものです。絶対的なものではありません。
ですから、皇帝が出した「短くせよ」という問いに対しては、相対的に短くすれば良いだけです。
ビルバルは、皇帝が引いた線の横にもっと長い線を引いたのです。それが正解なのです。
●経営には絶対の世界と相対の世界があります。
たとえば、売上げや利益、社員数など定量化できるものはすべて相対の世界。他社との比較、過去との比較において上を目指すなども相対的なものです。しかし、相対だけを判断基準にしていては、いつまでも不安や恐怖から逃れることはできません。
●逸話その2
ある日、智者・ビルバルは皇帝アクバルにこう言いました。
「ウソと真実は9センチほどの差がございます」
アクバル「なに? 9センチと申すか」
ビルバル「さよう! 9センチでございます」
アクバル王「いかなるゆえに9センチと」
ビルバル「皇帝様、よ~くご覧になってお考えくだされ。なぜならば、皇帝様が人からお聞きになる話には、ウソも含まれておりましょう。すべてが真実ではございません。しかしながら、大王様がご自身の目でしかと確かめられたことは、すべて真実でございます。されば、目と耳の間隔がちょうど9センチですからそのように申し上げた次第です」
こうした教訓を素直に実行した皇帝アクバルは、300年続いた悪税を大改正するなど、屈指の名皇帝になってゆきます。
●社長は是非とも、ビルバルのような存在を味方に引き入れたいものです。
2011年09月23日(金)更新
少林窟道場 参禅記
●某月某日、生まれて初めて座禅道場に行きました。それ以前にも我流で座禅を組んだことはありますが、本格的な道場に行くのは初めてのこと。しかも、一週間も道場にこもって座禅三昧の日々を送ろうというわけです。
●そのときの体験をここに書いてみたいのですが、料理の味を他人に説明するのが困難なように、禅の世界をかいま見た経験をどれだけお伝えできることやら。挑戦してみましょう。
●まずは周囲の環境から。
そこは、広島県竹原市忠海にある「少林窟道場」といいます。道元禅師の流れを汲む曹洞宗のお寺で、現・道場主は第五世・井上希道老師、71才(以下、「老師」という)。
●「決して大きな道場ではない」と道場のホームページにもありますが、22名まで収容できる「禅堂」と、仏間や執務室、食堂などの「衆寮」、参禅者が睡眠をとる「宿坊」などからなります。私には相当な規模に思えました。ただし、本当に山深いところです。
目の前には瀬戸内の海が、真後ろは山々が連なり、鶯の声や竹笹が風でそよぐ音色など、絶好の坐禅環境です。
●少林窟道場での日課は、「禅三昧」のひとことに尽きます。
午前5時 木版。暁鐘。
老師のお弟子さんの修行僧が木版を鳴らす音で目ざめます。その直後から鐘の音も聞こえてきますが、その時には洗面を済ませ、皆がすでに禅堂で坐禅を組んでいます。まだ真っ暗で、シーンとした静寂と冷気、それに線香の香りだけがあります。
午前7時 粥坐(朝食)
毎食後には老師による法話がある。短いと数分、長いと一時間を超えることもあります。食後、初参禅者は直ちに禅堂にもどり坐禅。二回目以降の参禅者は、適宜、作務(後かたづけなど)を行い、坐禅。
正午 斎座(昼食、法話)食後、初参禅者は直ちに禅堂で坐禅
午後6時 薬石(夕食)食後、初参禅者は直ちに禅堂で坐禅
夕食前後 逐次開浴(入浴のこと。入浴しない修行法もありますが、このときは一日おきに入浴させていただいた)
午後10時 開枕(就寝)
ただし、禅堂は24時間開いているので徹夜坐禅も可能。つまり起きている17時間のうち、食事時間と入浴時間、トイレ時間以外のすべてが坐禅となります。短くても一日14時間は坐禅なのです。
●到着した初日。さっそく修行者としての格好に着替える。道場着に袴すがたになって、老師の部屋に到着のあいさつに伺います。
そのとき、こんな予期せぬ注意事項を受けました。
「当道場において守ってほしい決まりがある。まず第一に、悟りを得ることが第一目的なので、それ以外のことで無駄な我慢や遠慮をしなくても良い、ということだ。たとえば坐禅中に足が痛ければ崩す、眠くなれば好きなときに好きなだけ寝て良い。腹が減ればいつでも食堂にはお茶菓子が用意されておる、という具合だ」
「ほぉ~。そんなに自由でもよろしいのですか?」
「心の自由自在を求めて参ったはずのあなたが、それを得るために不自由な思いをしていては本末転倒ではないか」
「なるほど」
●「注意事項の二つめは、すべての時間が悟りを求めての修行であることを決して忘れない。歩くときには歩くことに徹し、放尿にありては放尿に徹し、咀嚼にあってはただ咀嚼する。そのことになり切り、気持ちを他のことに外してはならない。心身一如になることだ。そのためには、何ごとにおいても道元禅師が言われる『薄氷を踏むが如くすべし』である。普段の生活のスピードの十分の一で行動することを忘れないでほしい」
「十分の一ですか。わかりました。そのようにいたします」
●だがさっそく初日の薬石(夕食)の時、老師から
「武沢さん! あなた外してるよ」と食事中に大きな声で叱責を受ける羽目になりました。手を伸ばし、おかずをとりに行くときの行動が心身一如になっていないのを見破られたようです。おかずをとるのなら、只とることに無我夢中になっていなければならないのに、私は他のことにも心を配りながらとりに行っていたのです。
●足が痛くなれば伸ばして構わないし、片膝ついた坐禅もOK。もちろん、イスOK、立つOK、歩くOK。他人に迷惑さえかけなければ、NGはない。大切なことは、姿勢ではなく全力で今のこの一瞬に気持ちを集中させること。そのためには、呼吸するだけの自分になりきることだ。よって、姿勢などなんでも良いということになるのです。
●少林窟では、「初めて坐禅をやろうという人は一週間確保すべし」と原則で指導にあたっているそうです。
たしかに、私も最初の3日目や4日目までは、雑念妄想ばかりが頭に浮かびました。仕事のことをはじめ、いろいろな考えが頭を去来し、時にはそれにしばらく取りつかれている時もありました。
●呼吸のひと息ひと息を明確に行い、それに意識を集中するよう指導され、真剣にそれを守ります。しかも定期的に腰を左右にゆっくり捻る、という老師特有の指導法により、雑念が長時間頭の中に居座ることがなくなっていきます。
●疲れがピークに達する5日目あたりから、不思議なことだが頭の中が空っぽになりはじめるのです。あたかも、脳が思考停止に陥ったように反応が鈍くなるのです。
そうなると、呼吸にだけ集中している自分がいます。周囲に修行者仲間がいたことすら忘れ、完全に没頭し、無我になっているのです。
●自分と呼吸が一体になることで、自分を捨てることが可能になるのでしょうか。
ドラッカーが「革新の鍵は捨てること」と語っているように、禅の悟りにおいても自分を捨てる、忘れることが大切なのです。
●「あなたはネットで情報を発信されるお仕事らしいが、これからもメールにありてはひらすらメールを。講演にありてはひたすら講演を。心身一如を忘れずに取り組みなさい」
とのアドバイスを受けました。
ご指導いただいた老師に対して、お礼のお辞儀を深々とした瞬間、急に激しくこみあげてくるものがありました。その様子をみて老師はひと言、「さあ、行きなさい」。
2011年09月16日(金)更新
テストと考査
●変化するとは、今の上に新しく何かをトッピングすことではありません。
いったんゼロにすることであり、いったんやめること、いったん忘れることから始まるものです。
●より良い話し方をマスターするとは、表面的な技法を身につけることではなく、話し方を根本から変えることです。同時にそれは、生き方を変えることでもあると教えられたのに、そのことに気づかなかった私はかつて大失敗しました。
●「日本話し方センター」の故・江川ひろし先生の講座を受けたときのことです。初日の研修が終わろうとする時に宿題が出ました。家に帰って、明日までにやってくるものです。
今日の講座でどの程度学んだかをチェックする目的で、テキストやノートを見ても構わない「考査」というもので、学んだ通りの表現や言葉を使って回答するものです。
●「なんだ、簡単じゃないか」出題を見て、私は安心しました。どこかでなめてしまっていたのでしょう。受講者仲間とファミレスでハンバーグを食べながらその場で片づけてしまいました。
そして、翌日の午後、結果発表がありました。
●「成績の良い順に答案をお返しします」と事務局。
私は、自分が首位で100点満点だと信じていたのですが、事務局は、「トップの方は、山本太郎さん。88点です」と言いました。我が耳を疑いました。
「あれ?」自分の名前ではない。しかも88点ではありませんか。
●「二番目の方は85点で須藤ちか子さん」、「三番は81点の松木順さん」・・・・。
あれあれ~、全然私が呼ばれない。最初は何かの間違いだと思っていましたが、だんだん自信がなくなり放心状態になりかけたとき「24番めのかたは、武沢信行さん。43点です」
●33人中24番。
江川先生から答案用紙を受け取り、席へもどりました。身体が火照っています。答案用紙は×だらけ。これが「考査」というものの恐さだと思い知りました。
●他の生徒たちは、テキストの表現や講座中の板書メモに沿って忠実に回答していたのに、私は、自分の言葉づかいで回答していました。いわゆる「テスト」だったら高い点数が取れたのかもしれませんが、「考査」ではそれが通用しないのです。
●この出来事を通して私は、学ぶことにも二種類あるのだと思い知らされました。
一つは、主旨を理解する学習法。もう一つは、学んだことをそっくりそのまま再現できる学習法。
●主旨を理解すれば充分な学習もあるでしょう。しかし、主旨の理解だけではダメな学習もあるということです。
むしろ、自分の経験をもとにした過去の知識はかえってジャマになることもあると気づかされました。
何かを学ぶときには、積極的に過去のことを忘れましょう。一時的でも構わないので、とにかくまったく知らない人になって素直に学ぶことが求められることがあります。
謙虚で真摯な学習姿勢が、変化と成長の原動力になるのだと教えられた一日でした。
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