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社長業を極めるためのカリキュラムについて、「日本的経営のリニューアル」という視点から紹介します
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2011年07月29日(金)更新
良寛さんが嫌ったもの
●「ステレオタイプ」(英: Stereotype)は社会学の用語で、「紋切型態度」と訳される。印刷のステロ版(鉛版)印刷術が語源で、判で押したように同じ考えや態度や見方が、多くの人に浸透している状態を言う。
●「お前も悪よの~」という代官はいかにも狡猾な悪代官のイメージがあるし、そう言われて声をかみ殺して卑劣に笑う悪徳商人にも特有のイメージがある。
白衣を着せたら医者か学者らしくみえるし、年輩の女性にヒョウ柄か虎柄のシャツを着てもらい、飴でもなめてもらったら、不思議なことに関西のおばちゃんらしくみえてくる。
こういうのを「ステレオタイプ」とか「紋切り型」という。
●江戸時代の僧侶・良寛(りょうかん)は「紋切り型」なものとして、次のものをあげ、いずれも大いに嫌った。
・詩人がつくる詩
・書家がかく書
・料理人がつくる料理
●さらに良寛は、次のものも嫌った。
悟りくさき話、学者くさき話、茶人くさき話、風雅くさき話、作為的な香りがするもの、もっともらしいもの、など。
今風にいえば、ウンチク話や教訓めいた話、説教などを嫌ったのだろう。
●「おいしいね、このワイン」といえばそれで充分なのに、
「さすがボルドーのビンテージだね。特にこれはカベルネ・フランの方だから、ソービニヨンより丸みと繊細さが同居してるのが分かるよねぇ。特に2000年のボルドーは当たり年でね、ちょうどその年に僕は友人を誘ってブルゴーニュからボルドーのワイナリーを回ってた時なんだよ。それでね・・・。」
などとやられた日には、せっかくのワインがまずくなる。
●「ステレオタイプ」「紋切り型」「もっともらしい」ものはまだまだたくさんある。
・講演家の講演
・ギタリストのギター
・プログラマーのプログラム
・建築家の建築
・マンガ家のマンガ
・デザイナーのデザイン
・コンサルタントのコンサルティング
・MBA理論の経営
・・・etc.
プロといわれるものの多くは、自然と紋切り型になりがちだ。
●これらはすべて良寛さんなら嫌うだろう。あえて、「らしくない」ものを目指そう。
本質的なものは形にとらわれない。常識に固まらない。スタイルを固定しない。
2011年07月22日(金)更新
寧静致遠
●北京、紫禁城(しきんじょう)。
中国の歴代皇帝がこの広大な敷地と膨大な数の建物群を住処とし政務を執り行い、ラストエンペラー溥儀(ふぎ)の代まで使われてきました。
その後、故宮(こきゅう)と名を改め、天安門をくぐって入る北京屈指の観光名所になっています。
●あるときここを訪れた私は、紫禁城内のイベントコーナーで書家の方々のパフォーマンスに出くわしました。希望すれば好きな言葉をその場で書いてくれ、掛け軸などに表装してくれるサービスもあるのです(二万円程度)。
●私もさっそくお願いしてみました。どんな言葉を書いてもらおうか、いろいろ迷ったあげく、「寧静致遠」をリクエストしました。"ねいせいちえん"と読みます。
これは、かの諸葛亮孔明が息子に書き残したことばです
「澹泊明志 寧静致遠」(たんぱくめいし ねいせいちえん)というもので、正確には次のとおり。
・・・
誡子書
夫君子之行 静以修身 倹以養徳
非澹泊無以明志 非寧静無以致遠
夫学須静也 才須学也
非学無以広才 非志無以成学
滔慢則不能励精 險躁則不能冶性
年與時馳 意與歳去 遂成枯落
多不接世 悲守窮盧 将復何及!
・・・
「それ君子の行ひは、静を以て身を修め、倹を以て徳を養ふ。澹泊(たんぱく)にあらざれば、以て志を明らかにすることなく、寧静にあらざれば、以て遠きを致すことなし。それ学は須く静なるべく、才は須く学ぶべし。学ぶにあらざれば、以て才を広むるなく、志あるにあらざれば以て学を成すなし。
滔慢なれば則ち精を励ますこと能はず、険躁なれば則ち性を治むること能はず。年は時と与に馳せ、意は日と与に去り、遂に枯落を成し、多く世に接せず。窮盧を悲しみ守るも、将た復た何ぞ及ばん。」
●「澹泊明志 寧静致遠」
「我欲が強くては志を保つことはできない。一心に努力しないと遠大な所には到達できない」という意味になります。
この書を額装し、掛け軸にしてもらいました。今、私のオフィスにこれが掲げられ、私を見張ってくれています。
2011年07月15日(金)更新
熱狂する社員
●給湯室で社員同士がおしゃべり。
A子:「ねぇねぇ、夕べのあのドラマ見た?」
B子:「あ、あれでしょ、見たよ。すごいねえ。あれってさあ・・・」
たまたまそこに通りかかったC課長が、「君たち、何してるの。さっき休憩時間が終わったばかりじゃないか。勤務中の私語は慎みなさい!」
A子、B子:「は~い、すみません」
こんな様子で仕事にもどったとしても良い仕事ができるとは思えません。いついかなるときでも「私語や勝手な休憩は禁止」で良いのでしょうか。
●昔、私は人事部で働いていたことがあります。先輩にむかって「これからは社員のモティベーションを高めることが重要だと思います」というようなこと言ったときでした。
先輩はこう言いました。
「いいか、武沢。そもそも企業というところは社員のモティベーションに期待するようではいけないんだ。モティベーションが高かろうが低かろうが、誰がやっても同じような仕事ができて、同じような結果が出るようにすることが仕組みの力だ。これからは仕組みの勝負なんだ」
●「じゃあ人事部は何をするところですか?」と聞いても先輩は口ごもって教えてくれませんでした。
たしかに先輩が言うことにも一理あるとは思います。もともとやる気には個人差があり、個人差があるものに依存していては一定の成果が出ません。最初からそれに依存しないほうが良い、というのも分からぬでもありません。
●しかし、今や画一的な生産やサービスが行われれば良い時代は終わりました。一人一人の仕事が高度化し、高いコミュニケーション力や臨機応変の対応力が問われる時代なのです。社員の仕事はプロ化し、モティベーションは高くなければならないのです。
●『熱狂する社員』(デビッド・シロタ著、英治出版)という本があります。これは、情熱にあふれた社員を作るための本なのですが、それによれば、情熱的な社員が働く会社は調査全体の企業の13.8%に過ぎないそうです(1972年以降最近までの米国における調査)。
日本でも上場企業の20~30才代の4分の3が無気力を感じ、2分の1が潜在的な転職願望をもっているといいます(2005年野村総研調査)。
つまり、米国でも日本でも社員が情熱的な会社は少数しかないということでもあるのです。
●なぜそうなるのでしょうか。
会社も社員もそれを望んでいるはずなのに、なぜモティベーションが上がらないのか?
それは、無気力な社員が悪いのではなく、会社が社員をそのようにしてしまっていると考えられています。社員は一度でも「この会社を辞めたい」という選択肢が芽生えると、仕事中、時々その考えが思い起こされるようになり、やがて頭の片隅にいつもある状態になります。そうなってしまうと、仕事の成果はいちじるしく低下していきます。
●『熱狂する社員』では、モティベーションの三要素として、
・いかに公平感を感じるか
・いかに達成感を感じるか
・いかに連帯感を感じるか
をあげています。
「公平感」「達成感」「連帯感」。それぞれの要素でプラスになることや妨げになることは何なのかを考え、手を打っていく必要があるのです。
2011年07月01日(金)更新
捨てる
●司馬遼太郎原作の『坂の上の雲』の主人公は、秋山好古・真之の兄弟と正岡子規。いずれも松山出身の若者たちで、彼らがある分野で近代国家・日本を切りひらいていく明治時代の物語である。
●子規は若くして結核にたおれたが、近代俳句の世界を切りひらいた。
また、秋山兄弟は兄が陸軍で栄達し、日本騎兵の父といわれるにいたった。弟・真之は海軍の連合艦隊の作戦参謀として東郷平八郎に仕え、ロシアのバルチック艦隊をやぶる作戦を考案した。
●兄の好古はいつも身のまわりを簡素に保った。
それは、一大事があったとき身のまわりが複雑であっては行動がにぶくなる。
ひとり暮らしをしていた兄を訪ねた真之は、一緒にごはんを食べたくても茶碗がひとつしかないことに閉口する。兄がその茶碗で酒を飲み干すのを待ってからメシを茶碗によそって食う。弟がメシを食い終わるのを待ってその茶碗で兄が酒を飲む。
●そうしたエピソードをたくさんもつほど、兄はシンプルにこだわった。
「家を出て出家するのはむずかしいことではない。むずかしいのは、出家したあと寺を出ることだ」と江戸時代の僧侶:慧薫風外(えくんふうがい)は語った。
●修行僧(雲水)は、師を求めて寺を渡り歩く。「これぞ!」という師に巡りあうことができれば、そこで修行を続ける。
あいにく悟りが得られないまま師に見限られてしまえば、別の師をもとめて旅に出ねばならない。こちら側で師を見限るときだってある。そんな時もやっぱり旅にでる。
●ところが、一度入った寺を出るのがなかなか大変らしい。悟りもひらけず、師を見限ることもできないまま、人間関係と義理人情がからんで、思い切り悪くひとつの寺に居つづけてしまいがちだという。
●私はこの話を聞いて、ビジネスも一緒だと思った。慧薫禅師の言葉をビジネスに応用すれば、こうなる。
「起業するのは難しくない。難しいのは、起業したあとでも会社を起業的に保つことだ」
「会社を軌道に乗せるのは難しくない。難しいのは、軌道に乗せた仕事をさらに発展させることだ」
●シンプルかつ身軽でいることが一番である。余分なものは捨てなければならない。目的を決して忘れず、目的に関係しないものは潔く捨てるのだ。
それは目にみえるものだけでなく、義理人情のたぐいの人間関係のしがらみもなるべくシンプルに保っておこう。
2011年06月24日(金)更新
龍樹というひと
●むかしむかし龍樹(りゅうじゅ)というインドの若者がいました。
彼は大変に煩悩の強い人で「愛欲が人生の一番のよろこびだ。だからたくさんの女性と交わることこそ人生の幸福だ」と考えました。いや、考えただけでなく龍樹はそれを実行したのでした。
●大変頭が良かった龍樹は秘術をマスターし、みずからの身を隠す術を覚えました。そして王が暮らす宮廷に忍び入り、夜な夜な愛欲のかぎりをつくし、宮女たちを妊娠させていきました。
やがてそれが発覚し、龍樹の仲間は殺されてしまいました。龍樹ひとり命からがら宮廷を脱出したという話が仏典のなかに出てくるそうです。
●要するに龍樹とは愛欲におぼれる若者だったのですが、そんな彼が後に、ものすごく立派な仕事をなしとげ、仏教史に名を残すのですから人間は分からないものです。
龍樹(りゅうじゅ)とは、煩悩、とくに愛欲や性欲が強いゆえにそれにおぼれ、苦しみました。その苦しみから逃れたくて仏教に興味をもち、やがてその龍樹が「空」(くう)を生みだし「大乗(仏教)八宗の祖」とまで言われるようになるのです。
●ちょっと考えてみたいのですが、「性欲は強いが食欲は乏しい」とか、「物欲は盛んなのだが性欲はない」というようなことは、本来、矛盾した話でしょう。
「性欲」とか「食欲」とか「物欲」など、それぞれの欲がどこかで単独で存在するのではなく、どんな欲だろうが源は「生命エネルギー」ひとつだといわれています。ただ、エネルギーのはけ口が違うだけなのです。つまり我欲や煩悩がつよい人は、エネルギーが強いわけですからそれを上手にいかせばよいのです。
●ということは、欲とのつきあい方を再検討していく必要がありそうです。
どのような欲(煩悩)であろうとも、それを打ち消そうとするのが小乗仏教の考え方で、初期の仏教(小乗仏教)では煩悩を断ち切るための修業や隠遁生活をしました。
●しかし、本人の独りよがりでおわってしまう小乗仏教ではなく、悟りを世に広め、人を救うために修行しよう。その結果、自らも救われるという大乗仏教がおこりました。その創始者が龍樹なのです。
●そこで考案されたのが「六波羅蜜」(ろくはらみつ)の教えでした。生命エネルギーをしぼませることなく、積極的に意味あるものに使おうという教えでもあります。
六波羅蜜とは六つのことを自分に課すものです。
それは、
1.布施(ふせ)
2.持戒(じかい)
3.忍辱(にんにく)
4.精進(しょうじん)
5.禅定(ぜんじょう)
6.智慧(ちえ)
の六つです。
●「布施」とは、人に施すこと、「持戒」とは、戒律を守って生活をすること、「忍辱」とはたえしのぶこと、「精進」とは努力を惜しまぬこと、「禅定」とは座禅を組むこと、「智慧」とは自分の頭ではなく仏の教えに導かれて行動すること。
●とくに我欲の強い人は積極的に人に「布施」することによって執着から離れようとトレーニングします。
誘惑に負けやすい人は、「持戒」つまり、戒律を守ることを自分に課して気分に流されない自分を作っていきます。怠けやすい人は「精進」つまり、仕事に励むことによって怠け心に打ち勝ちます。
●個人でも会社でも目標を作ることは簡単なことです。しかし、その実現にむけて自らを律していくことは簡単ではありません。
だからこそ、「六波羅蜜」のようなシンプルなトレーニングを課して自己成長をはかり、目標を手に入れるにふさわしい自分をつくっていけば、おのずと目標が向こうからあなたの方に近寄ってくるということなのでしょう。
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