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2010年04月02日(金)更新

志に生きるためには・・

●バンクーバー五輪で無敵の強さを見せ、みごと銀盤の女王の座に輝いたキム・ヨナ選手。しかし翌月の世界選手権ではミスを連発しました。得意のスピンの入りでよろけて回転できない、スパイラルでも途中で脚を上げていられなくなる大失敗。本人も「何が起きたのか分からない。ジャンプ以外で要素が完全に抜けてしまったのは初めて」と青ざめていました。冒頭の連続3回転ジャンプを鮮やかに決め、本人も「いけると思った」直後の出来事だけにショックは隠せないことでしょう。

●女王にもこうした大失敗があるくらいですから、当然、失敗は誰にだってあります。
問題は失敗の有無ではなく失敗にめげずに立ち向かう気持ちの有無です。キム・ヨナ選手はバンクーバー以後、引退をほのめかすような発言をしていただけに、この世界選手権で優勝するモチベーションが最初から足りなかったのかもしれません。

●「優勝する」「ライバルに勝つ」という強い志があればキム・ヨナ選手は次の試合できっとリベンジするでしょうが、そうした気持ちが途切れてしまえば、別の進路で目標設定することでしょう。大切なことは失敗の有無ではなく志の有無の方です
●かつてアメリカにこんな政治家がいました。大変有名な話なので、どなたもご存知でしょうが、あらためて彼のやったことを見てみましょう。次のような政治家を私たちは失敗者だと言えるでしょうか?

1809年ケンタッキー州の貧農家族に生まれる
1831年(22才)ビジネスに失敗
1832年(23才)地方議員選挙に落選
1833年(24才)ビジネスに再び失敗
1834年(25才)地方議員選挙に初当選
1835年(26才)最愛の恋人が死去
1836年(27才)自ら神経衰弱の病にかかる
1838年(29才)議会で敗北
1840年(31才)大統領選委員選挙に落選
1843年(34才)下院選挙に落選
1846年(37才)下院選挙に当選
1848年(39才)下院選挙に落選
1855年(46才)上院選挙に落選
1856年(47才)副大統領選挙に落選
1858年(49才)上院選挙に落選
1860年(51才)「丸太小屋からホワイト・ハウスへ」のキャッチコピーで大統領に当選
1861年(52才)南北戦争勃発
1863年(54才)「人民の人民による人民のための政治」・・ゲティスバーグで歴史に残る演説
1864年(55才)大統領選に再選
1865年(56才)南北戦争終結、黒人奴隷解放
ワシントンのフォード劇場で観劇中に暗殺
合衆国憲法修正、同国内の元奴隷すべてに公民権付与が決定

●50才までは失敗のオンパレード人生。ですが、今となっては、アメリカ合衆国の多くの都市が彼の名にちなんで命名しています。ネブラスカ州の州都は彼の名前そのものですし、ワシントンD.Cには彼の名の記念館があります。
5ドル紙幣および1セントコインには彼の肖像が採用され、サウスダコタ州のラシュモア山国立記念公園に顔を彫られている大統領の一人でもあります。
彼の誕生日2月12日は、1892年に連邦の休日と宣言されましたが、後にジョージ・ワシントンの誕生日と併せて大統領の日とされました。
それに、彼の名前は航空母艦や高級自動車にまで使われているのです。

●もうおわかりでしょう。そう、この人こそ他ならぬ米国第16代大統領、エイブラハム・リンカーンです。彼が勝利らしい勝利をおさめたのは、51才と55才のときの大統領選だけで、あとは全部失敗です。
ですが、失敗とは挑戦をあきらめることを言います。そうした意味で、リンカーンは決して失敗者ではありませんでした

●結果も大切ですし、周囲の意見や社会の反応も大切なことですが、何よりも大事なことは、あなたの魂の叫びにあなたが正直に応えて生きていくことではないでしょうか。そういう人を、「志に生きる」というのでしょう。
社長は一貫して志に生きる人であり続けてほしいです。迷ったら立ち返る原点、それが志であり、それを文字に表したのが経営理念なのです

あなたの「志」と「経営理念」は今もそうした役目を果たしていますか?

2010年02月26日(金)更新

起業家とサラリーマン

●私が50才になったとき、ある経営者から『50代からの選択』(大前研一著 集英社)をプレゼントされました。
この本は大前氏がサラリーマンに送る檄文のような内容でしたが、楽しく痛快に読むことができました。
「サラリーマン同士でつるむな」、「やりたいことを10以上あげることができるか」、「死ぬときは貯蓄ゼロでいい」など、相変わらず歯切れがいい"大前節"を堪能させてもらいました。

●しかし異論もあります。たとえばこの箇所。

・・・
サラリーマンは常に上司によって、「人に言われたことをきちんとこなす力があるかどうか」で評価される。20代にこうやって育てられると、言われたことはやる、言われないことはやらない、という思考・行動パターンが習慣化する。これは、サラリーマンの生活習慣病みたいなもので、数年のうちに「お手」といわれたら、サッと手を出すという“サラリーマン染色体”に染まってしまうのだ。
・・・

サラリと読んでしまえば問題ないのかもしれませんが、私は少々引っかかっりました
私も30才になるまでは真面目で勤勉なサラリーマンでしたが、著者が言う「サラリーマン染色体」には染まっていません。

というより、勢いのある中小企業やベンチャー企業では、そうした染色体に染まる要素がないと思うのです。また、官僚的になってしまった巨大企業のサラリーマンだったとしても、本人の自覚次第で染色体まで染まるような愚はさけられるはずです。
●ですから、サラリーマンという立場の人を必要以上にワルモノにし、断罪するのは危険なことだと思います。
サラリーマンが悪いのではなく、"サラリーマン根性"が悪いわけで、その根性を要求したり、許容したりする仕組みの方が悪いと考えてみてはどうでしょうか。
サラリーマンの中にも経営者マインドに富んだ人がいる一方で、経営者の中にもサラリーマン根性の人がいます。大切なのは"根性"、つまり意識の方なのです

●では、具体的に「根性」や「意識」はどうあるべきでしょうか。
『イノベーションと起業家精神』でドラッカーが訴えているのは、サラリーマン根性を涵養するような組織ではなく、起業家精神を涵養する組織を作れということです。

昔から「諸行無常、万物流転」と言いますが、ドラッカーも、「人の手によるものに絶対のもの、永遠のものは存在しない。あらゆるものがやがて陳腐化する。そして進歩する。それが文明というものである。だからあらゆるものにイノベーションと起業家精神が必要となる。しかも常時必要となる。イノベーションと起業家精神が当たり前に存在し、継続していく起業家社会が必要なのだ」と説いています。

サラリーマン根性を育てかねない仕組みや制度があればすみやかに廃止し、逆に起業家精神を涵養する仕組みを考案しましょう
それには、あなたがなぜ起業家的であるのかをよく考えてみれば、そのヒントが見つかるはずです。

2010年02月19日(金)更新

行動を共にできる相手

●かつてある会社の経営会議に出席したおり、ささいなことから口論となり社長が専務をクビにするという”事件”がおきました。ことの発端はカレーチェーン店「C」社のカレーが美味いか不味いかという些細なことです。

それだけ聞くと、“大のオトナが情けない”と思われるかもしれませんが、彼らにとってカレーの好みの差は氷山の一角であり、一事が万事、日ごろから意見や好みがあわなかったのです。

意見が合う・合わないというのは調整できますが、趣味や感性が違っていると互いに歩み寄りようがないのかもしれません

●だからこそ、部下の喜怒哀楽や趣味嗜好が自分と同じである時、社長はすごくうれしいものです。それは社長に限った話ではなく人間の本性というべきものかもしれません。

ある日、私の講演会に部下を連れて参加されたS社長からこんなメールをもらいました。

「先日の岐阜での公開セミナーに大阪より参加させてもらいましたSでございます。私は武沢先生のお話をうかがうのはこれで2度目ですが、途中、涙がこみ上げてくるのを堪えていました。

今回は、自社の社員に是非聞かしてあげたいと最近入社してくれた二人の若手社員を連れて行きましたが、正直、最初は彼らがどういう意識で拝聴するか、不安でした。社長に無理やり連れて来られて、あまり感動もなく、ただ座っているだけで終わるかもと思っていました。

最初、受付で武沢先生の本を売っていたので、お前も買わないか?と尋ねたところ、[僕はこんな本、自宅にもたくさんありますから要らないです]といっていました。あぁやっぱり、連れてきても意味が無かったかと思いました」
●「セミナーが終わって、私は先生に挨拶に行きましたが、彼ら2名はその間になんと、自分の意思で先生の本を2冊ずつ購入していました。私は、1冊しか購入しませんでしたが(笑)・・。涙がこみ上げてくる思いでした。

そのあと、懇親会場へ移動する間、彼らが満足げな顔で『社長、今日は本当に来て良かったです』と素直に心から感謝していました。私は涙を堪えるのに苦労しながら感激しました。彼らの心に何か響いたのでしょう、心からこみ上げてくる熱い思いが顔に出ていました。

自分より一回り以上年下の彼らと、同じ感動を分かち合うことができて、これからの会社運営に意を強くもつことができました。創業して10年目になりますが、ようやく盟友に出会えた気分です。(後略)」

●私もこのメールに感動したので、さっそくS社長に返信したところ、再び次のメールが来ました。

「あれから、三人で話し合いましたが、我社の経営方針がはっきり決まりました。我々が真剣に世の中を変えてやろう、我々がこの業界を引っ張ってやろうと決断しました。男50にしてようやく死に場所が定まったようです」とありました。

人気ビジネス書『ビジョナリー・カンパニー』でも、まず大切なことは「適切な人をバスに乗せること」だと説いています。時には不適切な人をバスから降ろすか、後部座席に追いやることも重要だと説いています。そして、適切な人が運転席に集まって、自分たちの目的地を決めるくらいで十分だというのです。

目的地へいくのにふさわしい人を探すのではなく、ふさわしい人を見つけて目的地を決めるのだという考え方に最初私は疑問を抱きましたが、夫婦だってそれに似ています。結婚してから互いに話し合って夢を見つける方が一般的です。

盟友を見つけるには、こちらも盟友相手にふさわしい人間でなければなりません。男惚れする人間になること、それが行動を共にできる相手を見つける鍵だと思うのです。

2010年02月12日(金)更新

もうとまだ

●あるセミナーで講師が「コップの水が半分あるのを見てあなたはどう思いますか?」と聴衆に質問しました。

「もう半分しか残っていない」と考える人はなくなった水を見ているから否定的。「まだ半分残っている」と考える人は残っている水を見ているので肯定的。だから、いつでも「まだ」の心で今あるものに目を向けなさいというお話でした。

それを聞いて私は、「なるほどなぁ」という気持ちと同時に「そんな単純なものか?」という違和感を同時に感じました。

●相場の格言に「もうはまだなり、まだはもうなり」というのがあります。
もう底だと思えるようなときは、まだ下値がある。その反対に、まだ下がるのではないか、と思うときは、それが底かも知れないという先人の知恵です。

●「もう」か「まだ」かという二者択一だけで、その人が否定的か肯定的かが分かるというのはどうみてもナンセンスではないでしょうか。むしろ、「もう」や「まだ」のあとに続く言葉や態度が問われるはずです
●たとえば、こうです。今年も1月が終わりました。あと11か月、その事実をどう考えるのかを例にしてみましょう。

「もう」の人たちはこう考えます。

「もう1か月が終わってしまった。時間がたつのはあっという間だ。この1か月で私たちは何を達成したか。何が問題だったか、そして残された11か月を最高にすごすにはどうすべきだろうか」と考え計画を作り、行動を開始します。

「まだ」の人の発想はこうです。

「まだ今年も11か月残っている。まだまだ始まったばかりだ。さあ、この新しい2010年で何を達成しようか」と考え計画を作り、行動を開始します。

この二つの場合は、どちらも目標志向で積極的です。

●その反対に、「もう」でも「まだ」でも、どちらにしたってうまくいかない人の考え方はこうです。

「もう1か月が終わってしまった。あと11か月しか残っていない。このままだと今年もあっという間に終わってしまうだろう。ああ、何て無駄な1か月を過ごしてしまったのか」となげく人。

「まだ今年も11か月残っている。大丈夫、まだまだ余裕。あわてなくてもなんとでもなるさ」と残り時間の多さをあてにする人。

経営者は「もう」も「まだ」も両方を使いこなしましょう

事実や現実はありのままを受けいれ、過去を引きずらず、たえず今日を出発点にして最善を尽くそうと考える姿勢こそが大切だと私は思うのです

2010年01月08日(金)更新

もう一人の白虎隊

●江戸時代、会津藩(今の福島県)では藩校「日新館」に入学する前の6歳から9歳までの子供を地域ごとに組織し、武士としての心構えを互いに学びあうシステムがありました。
そのときの規則が「什の掟(じゅうのおきて)」です。その内容は、

一.年長者の言うことに背いてはなりませねぬ
二.年長者にお辞儀をしなければなりませぬ
三.虚言(うそ)を言うことはなりませぬ
四.卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
五.弱い者をいぢめてはなりませぬ
六.戸外で物を食べてはなりませぬ
七.戸外で婦人(おんな)と言葉を交えてはなりませぬ

「ならぬことはならぬ」と締めくくっています。ダメなものはダメなんだということです

●これらは要するに、「人として恥を知りましょう」ということなのです。
中国の孟子は、「人は羞恥心がなければならない。羞恥心は人間にとって重大な徳目である。もし羞恥心がないことを恥ずかしく思うようになれば、辱められることはない」と語っています。
会津の「什の掟」も羞恥心を定義したもののように思えるのです

●電車の中での携帯電話やお化粧。コンビニの前での座り食い。公園や路上での男女の抱擁や接吻。
彼らに注意しようものなら、「私の自由でしょう。それに誰にも迷惑かけてないじゃん」と反発するでしょうが、実は迷惑をかけているのです。
運転中の携帯電話を取り締まるだけでなく、これらの行為も公然わいせつ罪とか何かで取り締まってほしいものです。眉をひそめるだけでなく、国や学校の問題として「ならぬものはならぬ」と羞恥心を教えていかねばならぬはずです。

●会津藩に話は戻します。

白虎隊の物語は多くの方がご存知だと思うのでここでは割愛します。実は白虎隊と同世代の若者で郡 長正(こおり ながまさ)という若者がいます。
彼の行為は、「もう一人の白虎隊」として語り継がれているのですが、あまり知られていないようです
わずか16歳で自らの命を絶ったせい惨な最期は、「ならぬものはならぬ」という教えに殉じた武士の引き際です。ご紹介しましょう。

●郡 長正(安政3年~明治4年)
会津藩家老、萱野権兵衛の次男。明治のはじめ豊津小笠原藩(福岡県)に留学した。育ち盛り、食べ盛りの長正は、ある日郷愁を覚えて母に手紙を書き送った。
「稽古や野外訓練が終わったあとなど、空腹で辛いことがあるので、会津の柿を送って下さい」

●その手紙を受け取った母は、さすが武士の親。

「事もあろうに空腹を訴え、柿を送れとは何ごとですか。会津武士の精神はどこへやったのですか」と戒めたのです。愛する息子への思いやりは、甘やかすことではなく、たしなめることです。しかし長正の母は、まさかこの手紙が息子を死へおいやるとは露知りません。

●長正は母からのこの手紙を心の支えとして大切に持ち歩いていました。
あるとき不運にも、これを落としてしまいます。それを学友に拾われ、皆の前で読まれてしまったのです。
小笠原藩士の学友たちに会津武士を辱められるほど恥ずかしく悔しいことはありません。悩んだあげく、長正は会津武士の屈辱をはらそうと藩対抗剣道大会で完勝し、その後切腹して果てました。時に16歳。
「ならぬものはならぬ」という恥の精神を貫いたのです。

無病息災と不老長寿を願うばかりが幸せではなく、思想や志操に殉ずるためには、いつでも死と背中合わせに生きる生き方も人として大切なのではないかと思います
「もう一人の白虎隊」と言われるこの長正の生き様から何かを学びたいですね。
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