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2011年09月23日(金)更新

少林窟道場 参禅記

●某月某日、生まれて初めて座禅道場に行きました。それ以前にも我流で座禅を組んだことはありますが、本格的な道場に行くのは初めてのこと。しかも、一週間も道場にこもって座禅三昧の日々を送ろうというわけです。
 
●そのときの体験をここに書いてみたいのですが、料理の味を他人に説明するのが困難なように、禅の世界をかいま見た経験をどれだけお伝えできることやら。挑戦してみましょう。
 
●まずは周囲の環境から。
そこは、広島県竹原市忠海にある「少林窟道場」といいます。道元禅師の流れを汲む曹洞宗のお寺で、現・道場主は第五世・井上希道老師、71才(以下、「老師」という)。
 
●「決して大きな道場ではない」と道場のホームページにもありますが、22名まで収容できる「禅堂」と、仏間や執務室、食堂などの「衆寮」、参禅者が睡眠をとる「宿坊」などからなります。私には相当な規模に思えました。ただし、本当に山深いところです。
目の前には瀬戸内の海が、真後ろは山々が連なり、鶯の声や竹笹が風でそよぐ音色など、絶好の坐禅環境です。
 
●少林窟道場での日課は、「禅三昧」のひとことに尽きます。
 
午前5時 木版。暁鐘。
 
老師のお弟子さんの修行僧が木版を鳴らす音で目ざめます。その直後から鐘の音も聞こえてきますが、その時には洗面を済ませ、皆がすでに禅堂で坐禅を組んでいます。まだ真っ暗で、シーンとした静寂と冷気、それに線香の香りだけがあります。
 
午前7時 粥坐(朝食)
 
毎食後には老師による法話がある。短いと数分、長いと一時間を超えることもあります。食後、初参禅者は直ちに禅堂にもどり坐禅。二回目以降の参禅者は、適宜、作務(後かたづけなど)を行い、坐禅。
 
正午  斎座(昼食、法話)食後、初参禅者は直ちに禅堂で坐禅
 
午後6時 薬石(夕食)食後、初参禅者は直ちに禅堂で坐禅
 
夕食前後  逐次開浴(入浴のこと。入浴しない修行法もありますが、このときは一日おきに入浴させていただいた)
 
午後10時 開枕(就寝)
 
ただし、禅堂は24時間開いているので徹夜坐禅も可能。つまり起きている17時間のうち、食事時間と入浴時間、トイレ時間以外のすべてが坐禅となります。短くても一日14時間は坐禅なのです。
 
●到着した初日。さっそく修行者としての格好に着替える。道場着に袴すがたになって、老師の部屋に到着のあいさつに伺います。
 
そのとき、こんな予期せぬ注意事項を受けました。
 
「当道場において守ってほしい決まりがある。まず第一に、悟りを得ることが第一目的なので、それ以外のことで無駄な我慢や遠慮をしなくても良い、ということだ。たとえば坐禅中に足が痛ければ崩す、眠くなれば好きなときに好きなだけ寝て良い。腹が減ればいつでも食堂にはお茶菓子が用意されておる、という具合だ」
 
「ほぉ~。そんなに自由でもよろしいのですか?」
「心の自由自在を求めて参ったはずのあなたが、それを得るために不自由な思いをしていては本末転倒ではないか」
「なるほど」
 
●「注意事項の二つめは、すべての時間が悟りを求めての修行であることを決して忘れない。歩くときには歩くことに徹し、放尿にありては放尿に徹し、咀嚼にあってはただ咀嚼する。そのことになり切り、気持ちを他のことに外してはならない。心身一如になることだ。そのためには、何ごとにおいても道元禅師が言われる『薄氷を踏むが如くすべし』である。普段の生活のスピードの十分の一で行動することを忘れないでほしい」
 
「十分の一ですか。わかりました。そのようにいたします」
 
●だがさっそく初日の薬石(夕食)の時、老師から
 
「武沢さん! あなた外してるよ」と食事中に大きな声で叱責を受ける羽目になりました。手を伸ばし、おかずをとりに行くときの行動が心身一如になっていないのを見破られたようです。おかずをとるのなら、只とることに無我夢中になっていなければならないのに、私は他のことにも心を配りながらとりに行っていたのです。
 
●足が痛くなれば伸ばして構わないし、片膝ついた坐禅もOK。もちろん、イスOK、立つOK、歩くOK。他人に迷惑さえかけなければ、NGはない。大切なことは、姿勢ではなく全力で今のこの一瞬に気持ちを集中させること。そのためには、呼吸するだけの自分になりきることだ。よって、姿勢などなんでも良いということになるのです。
 
●少林窟では、「初めて坐禅をやろうという人は一週間確保すべし」と原則で指導にあたっているそうです。
たしかに、私も最初の3日目や4日目までは、雑念妄想ばかりが頭に浮かびました。仕事のことをはじめ、いろいろな考えが頭を去来し、時にはそれにしばらく取りつかれている時もありました。
 
●呼吸のひと息ひと息を明確に行い、それに意識を集中するよう指導され、真剣にそれを守ります。しかも定期的に腰を左右にゆっくり捻る、という老師特有の指導法により、雑念が長時間頭の中に居座ることがなくなっていきます。
 
●疲れがピークに達する5日目あたりから、不思議なことだが頭の中が空っぽになりはじめるのです。あたかも、脳が思考停止に陥ったように反応が鈍くなるのです。
そうなると、呼吸にだけ集中している自分がいます。周囲に修行者仲間がいたことすら忘れ、完全に没頭し、無我になっているのです。
 
●自分と呼吸が一体になることで、自分を捨てることが可能になるのでしょうか。
ドラッカーが「革新の鍵は捨てること」と語っているように、禅の悟りにおいても自分を捨てる、忘れることが大切なのです。
 
●「あなたはネットで情報を発信されるお仕事らしいが、これからもメールにありてはひらすらメールを。講演にありてはひたすら講演を。心身一如を忘れずに取り組みなさい」
とのアドバイスを受けました。
ご指導いただいた老師に対して、お礼のお辞儀を深々とした瞬間、急に激しくこみあげてくるものがありました。その様子をみて老師はひと言、「さあ、行きなさい」。