2010年07月23日(金)更新
社長が考えていること(1)
●「考える」ことと「悩む」ことには、はっきりとした違いがあります。「考える」という行為は生産的であるのに対し、「悩む」という行為には非生産的な響きがあります。
なにかを生みだそうと紙と鉛筆(またはパソコン)を手にして考えることが大切です。書いて書いて書きまくっていくと、やがて指が勝手に考えてくるようになります。
●先日の「海の日」の連休を利用して『社長のための計画合宿』を名古屋で開催しました。15人の社長が自社の経営理念や経営戦略を紙に落とし込んでいきます。一泊二日とはいえ、正味10数時間はアッという間に過ぎてしまいます。
そんな合宿の過ごし方をみていると、生産的な社長は書きまくって考えていますが、生産的でない社長は腕組みをし、虚空を見上げながらウンウンとうなっています。
●すでにあらゆる社長が、あらゆる問題について考えてきました。そうした先人の知恵を活用し、いただけるアイデアはどんどん吸収していけば良いのです。
2010年07月16日(金)更新
士の心
●山口県萩市にある「松下村塾」跡地、今の松陰神社には毎年一回は訪れています。ここにくるだけで、自分の志が問われるようで、厳粛な気持ちになれるからです。
志というものは、何かになろうとするために作るものではなく、いかにあるべきかの基準を定めることのほうが大切なのだと思います。
●吉田松陰が叔父・玉木文之進の嫡子、毅甫(きすけ)の元服に際して贈ったことばがあります。このときの文章がのちの松下村塾の士規七則につながっています。
1.およそ生をこの世に受けて人となったからには、人が禽獣(きんじゅう)と異なるゆえんをしらなければならない。思うに人には五倫がある。そのうち君臣、父子の道が最も大切である。だから人の人である真面目は、忠孝を根本とすることにある。
2.およそ皇国に生まれたからには、わが国が世界各国より尊いわけを知っていなければならない。思うに、皇室は万世一系であり、士や大夫は代々禄を受け地位を継いでいる。
君主は人民を養い、祖業を継がれ、臣民は君主に忠義を尽くし、もって父の志を継いでいる。君民一体、忠孝一致、これはわが国だけの特色である。
2010年07月09日(金)更新
海援隊約規に学ぶ
●「海援隊の約規は実に簡素なものである。事細かな規則など必要ない。我々は天を翔ける鶴、その飛ぶ所にまかす。鳥かごの中に入るものではない」と龍馬が書いているように、海援隊の約規はとても短いものです。その原文と武沢訳の両方をお届けしましょう。
【海援隊約規 原文】
一.凡嘗テ本藩(土佐)ヲ脱スル者及佗(他)藩ヲ脱スル者、海外ノ志アル者此隊ニ入ル。
運輸、射利、開柘(拓)、投機、本藩ノ応援ヲ為スヲ以テ主トス。
今後自他ニ論ナク其志ニ従ッテ撰入之。
二.凡隊中ノ事一切隊長ノ処分ニ任ス。敢テ或ハ違背スル勿レ。若暴乱事ヲ破リ妄謬害ヲ引ニ至テハ隊長其死活ヲ制スルモ亦許ス。
三.凡隊中忠難相救ヒ困厄相護リ、義気相責メ条理相糺シ、若クワ独断果激、儕輩ノ妨ヲ成シ、若クハ儕輩相推シ乗勢テ他人ノ妨を為ス、是尤慎ム可キ所敢テ或犯ス勿レ。
2010年07月02日(金)更新
酒を飲むのも仕事
●サッカー日本代表の活躍で、支持率がV字回復した岡田武史監督。思いきった選手起用と自分達はやっぱり弱いんだという前提で泥臭い戦い方をしたのが功を奏しているようです。
この原稿を書いている段階ではまだ決勝トーナメント初戦(パラグアイ戦)が始まっていないので先行き不透明ですが、どこかの段階で祝勝会かご苦労さん会をやるでしょう。そんな時の酒は本当に美味いだろうと思います。これぞ勝利の美酒というもの。
●昔、戦国時代のある名将は戦に大勝し、部下に酒を振る舞おうとしましたが酒が足りなかった。そこで、酒を川に投じてみなでそれを汲んで飲んだといいます。川水で酔うわけがありませんが、名将の思いやりに部下は酔いしれたことでしょう。
●「福」を分かち合うということを「分福」といいます。一方、「福」を将来のために取っておくことを「惜福」といいます。
うまい酒はみんなで分かち合って飲もう!というのが「分福」で、うまい酒は一晩で飲まず、毎晩一人でチビチビやろうというのが「惜福」なのです。どちらも大切ですが、リーダーにふさわしいのは「分福」の方でしょう。
2010年06月25日(金)更新
ある母の手紙
●今から100年ほど前の明治45年、ある母親がアメリカにいる息子に宛てた手紙をご紹介しましょう。
この母親は幼いうちに両親と生き別れ、子供のころから働きに出たため、学校も満足に出ていませんでした。手紙には誤字も多いし句読点のうち方もヒドイ。でも息子の心をとらえてはなさしませんでした。そして、後に出世した息子の記念館にいまもこの手紙の実物が保存され、それを見た私の心まで打ってしまいました。
・・・
おまイのしせ(出世)にわ、みなたまけ(驚ろき)ました。わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまによこもり(夜篭り)をいたしました。
2010年06月18日(金)更新
ある牧師の祈り
●数年前のことですが、中国の上海から杭州まで白タク(無許可営業のタクシー)に乗ったことがあります。ワンボックスカーに総革張りのシートで、ほとんど新車でした。私を呼び止めた営業の中年女性は片言の英語を話しましたが、彼女自身は車に乗り込みませんでした。運転手は中国語しか話せない中国人男性でお客は私ひとり。本当に杭州へ連れて行ってくれるのか心配になりました。
●お金を節約するためにこんなハラハラドキドキするなんて馬鹿だったと後悔しましたが、車は猛スピードでどこかへ向かっています。また、そんなときに限って道路案内標識がなかなか現われません。ますます不安が募り、私は心のなかで「神様、お助け下さい」と祈る気持ちになりました。
●すると5分もしないうちに急に眠くなり、ウトウトしはじめました。
そのウトウトの瞬間、不思議なことに20年前に聞いたキリスト教の牧師のメッセージが思い出されました。
その牧師は、まだかけ出しの頃とても貧しかったそうです。信者からの献金や献品で辛うじて糊口をしのいでいましたが、布教活動するための自転車がありませんでした。徒歩による宣教活動だけでは限界があります。そこで牧師は神に祈りました。
2010年06月11日(金)更新
藤樹先生
●「人の第一の目的とすべきは生活を正すことである」という言葉に接した11才の中江藤樹(なかえとうじゅ)少年は、思わずこう叫びました。「このような本があるとは。天に感謝する」「聖人たらんとして成りえないことがあろうか!」と、感極まって泣いたという少年藤樹。それだけでなく、この日の感動を終生忘れることなく、「聖人たらん」という大志を抱き続けたというから、何たるすごい人物でしょう。
●藤樹は、1608年生まれ。江戸時代が始まって5年後の生まれで、侍は武芸に励むのが常識とされた時代にあって、学者・教育者の道を歩みます。
のちに「日本の陽明学の祖」、「近江聖人」と言われるにいたるきっかけは幼少時の読書にありました。
●藤樹少年は単なる早熟な子供ではありませんでした。その後の成長ぶりがまたすさまじいのです。
そのあたりを物語る逸話として、内村鑑三著『代表的日本人』にあるエピソードからご紹介しましょう。
2010年06月04日(金)更新
修羅場をくぐる
●ある日の未明のこと、ふとんの中で苦しくなって目が覚めたS社長(55才)は、次の瞬間、「ウッ」とうなり声をだし、胸を押さえました。心臓の異変だとすぐにわかりました。家族が近くで寝ていたのですが助けを呼ぶことができないもどかしさ。
●救急車で運び込まれたのは循環器系では日本有数の病院でした。しかも当直医が循環器の医師でした。適切な処置がすぐになされたため、初日のヤマは越えました。ですが予断を許しませんでした。
●その後、実に12日間にわたって昏睡状態が続きました。その間、妻や長男が病院に呼ばれ、海外に留学していた次男も緊急帰国しました。
集中治療室の照明のまわりに蝶々がとんでいます。
ぼんやりとした意識の中で、「へぇ、最近の病院は顧客満足のためにこんなサービスもはじめたんだ」と思いました。幻覚をみながらそんなことを考えるのがS社長らしいところです。
2010年05月28日(金)更新
知恵のみを追う
●「少年よ大志を抱け」
小さい志ではなくて、大きな志をもつことをクラーク博士は説きました。クラークさんに言われるまでもなく、日本でも江戸時代の儒学者・貝原益軒は次のように述べています。
「志を立つるは大にして高きを欲し、小にして低きを欲せず」
●洋の東西を問わず、先人たちは後輩にむかって「大きな志を持て」と教えるのはなぜでしょうか?
それは困難なことだからです。むしろ、けがれの少ない若者こそ大志は抱けるが、大人や老人になるとだんだんそれができにくくなるのかもしれません。
●ルソーにいたっては、人間の欲望はいつまでたっても肉欲だと次のように皮肉っています。
「十歳にしては菓子に動かされ、二十歳にしては恋人に、三十歳にしては快楽に、四十歳にしては野心に、五十歳にしては貪欲に動かされる。いつになったら、人はただ知恵のみを追うて進むのであろう」
2010年05月21日(金)更新
家康の強運
●徳川家康は三方原(静岡県浜松市の北部)の合戦(1753年)で武田信玄に大敗を喫しました。野球で言えばコールドゲーム、ボクシングならタオルが投げられるほどの完敗です。
なにしろ相手が悪い。川中島で上杉謙信と幾たびも交戦し、戦上手この上ない日本を代表する屈強武田軍団なのですから。
とにかく家康は馬上で脱糞しながらも、ほうほうの体で逃げ伸びました。
●家臣にも笑われるほどの惨めな姿で城に戻った若き家康は、そのあとが立派でした。この敗戦を教訓にするため、自分のみじめな姿を絵師に描かせているのです。トップとして、なかなかできることではありません。
★家康敗戦の絵 http://www.hamamatsu-navi.jp/shiro/history/002.html
●この敗戦が忘れられぬ家康は、後々になっても「負けを知らない人はよろしくない。私の場合、三方原で・・・」というようなことを周囲に語っています。



