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2010年06月25日(金)更新

ある母の手紙

●今から100年ほど前の明治45年、ある母親がアメリカにいる息子に宛てた手紙をご紹介しましょう。
この母親は幼いうちに両親と生き別れ、子供のころから働きに出たため、学校も満足に出ていませんでした。手紙には誤字も多いし句読点のうち方もヒドイ。でも息子の心をとらえてはなさしませんでした。そして、後に出世した息子の記念館にいまもこの手紙の実物が保存され、それを見た私の心まで打ってしまいました。

・・・
おまイのしせ(出世)にわ、みなたまけ(驚ろき)ました。わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまによこもり(夜篭り)をいたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)きりかない。(きりがない)いぼし。ほわ(烏帽子=近所の地名 には借金を返すようにいわれて)こまりおりますか。(困っています)
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。
ドか(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにこきかせません。それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかしさむいてわおかみ。
しております。きた(北)さむいてはおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわ しおたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄昌様=修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわおかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちちまちて(返事を待って)をりまする。ねてもねむれません。
・・・


●「1日も早く帰ってきてほしい、私は心細い」と息子に訴える母。この手紙の差出人は、野口シカさん、受取人は息子の野口英世です。

極貧の農家に生まれた野口清作(のち英世と改名)は、困窮していたシカさんにとって希望の星でした。ところが、一歳半のときに起こったあの有名な悲劇。

●我が子のすさまじい鳴き声に驚いて駆けつけてみると、清作がいろりの火の中に体ごとうつぶせに倒れこんでいたのです。あわてて抱き上げるシカ。ですが清作の左手が無残に焼けただれ、シカは苦痛と恐怖でぶるぶると震えていたといいます。場所は猪苗湖畔の寒村で、近くに医者はいません。もしいたとしても、払えるお金はありませんでした。
シカは一心不乱にお経を唱え、21日間にわたって観音様に願をかけながら寝ずの看病を続けます。

●幸い命は助かったものの、清作の左手は、親指が手首のところにねばりつき、中指は手のひらにねばりついて離れない。松の木のこぶのような醜い姿となってしまいました。
このとき、シカは清作の将来について悲観せざるを得なかったのです。

「こんな手では百姓はできない。この子を一生養ってゆかねば」

●シカは我が不注意を深く悔いました。そして息子を養っていく覚悟を固めます。
ですが予想外なことに、清作はヤワな男ではありませんでした。努力家の秀才だったのです。死に物狂いで学問に打ち込みました。睡眠時間は極端に短く、風呂焚きなどの仕事をしながらも読書し続けました。
そんな清作にやがて支援者があらわれたのです。
清作は、上京して医者を目指す決意をします。この時に、清作が自宅の柱に小刀で彫った言葉が今も残されています。

 -志を得ざれば再び此地を踏まず-

私は野口英世記念館でこの彫り物をみました。

●学問が認められ、米国の研究所で助手を務めるなどをしながら栄達してゆく英世とは裏腹に、この頃のシカがもっとも財政的に苦しかったようです。そのとき、慣れぬ筆を取り上げて書いた手紙が冒頭のものです。

●たった100年前は、シカのような人たちが日本中にたくさん居ました。それを思うとずいぶん日本人の暮らしぶりが豊かになったことに素直に感謝したいと思います。

しかしその反面で、日本人の若者に青年・野口英世のような青雲の志があるかと問われたら、少々お寒い現状だと言わざるを得ません。また、豊かになったがゆえに親子の絆が失われつつあるのも感じます。

●消費税をどうするか、米軍基地をどこに置くかという問題も政治の争点かもしれませんが、日本人の若者をどうするか、日本の家庭をどうするかを論じる政治家が登場してほしいものです。私たち経営者は日夜そうした若者と格闘しているのですから。

2010年06月18日(金)更新

ある牧師の祈り

●数年前のことですが、中国の上海から杭州まで白タク(無許可営業のタクシー)に乗ったことがあります。ワンボックスカーに総革張りのシートで、ほとんど新車でした。私を呼び止めた営業の中年女性は片言の英語を話しましたが、彼女自身は車に乗り込みませんでした。運転手は中国語しか話せない中国人男性でお客は私ひとり。本当に杭州へ連れて行ってくれるのか心配になりました。

●お金を節約するためにこんなハラハラドキドキするなんて馬鹿だったと後悔しましたが、車は猛スピードでどこかへ向かっています。また、そんなときに限って道路案内標識がなかなか現われません。ますます不安が募り、私は心のなかで「神様、お助け下さい」と祈る気持ちになりました。

●すると5分もしないうちに急に眠くなり、ウトウトしはじめました。
そのウトウトの瞬間、不思議なことに20年前に聞いたキリスト教の牧師のメッセージが思い出されました。

その牧師は、まだかけ出しの頃とても貧しかったそうです。信者からの献金や献品で辛うじて糊口をしのいでいましたが、布教活動するための自転車がありませんでした。徒歩による宣教活動だけでは限界があります。そこで牧師は神に祈りました。

「神さま、あなたの栄光を表すために私は自転車を必要としています。どうか、自転車を私にさずけて下さい。アーメン!」

●一ヶ月たち、二ヶ月たち、とうとう半年が経過しました。それなのにいっこうに自転車が手に入りません。その牧師は神様に確認する意味もこめて、こう祈ったそうです。

「神さま、私は全時間をあなたに捧げています。でも自転車がなくて毎日の活動はとても不自由を感じています。もし、御心にかなうならば一日でも早く自転車を私に授けてください。それとも、私の活動は御心にかなわないのでしょうか?」

●すると、そのときは神から返答が来たそうです。

「あなたの祈りは毎日聞いている。あなたの願いをかなえてあげたいとそのたびに思う。だが、いつもあなたは"自転車が欲しい"としか言わない。私はどんな自転車をそなたに授けてよいのか分からないのだ。もっと具体的に祈ってくれ」

●牧師は「そうかぁ、しまった。私が浅はかだった」と反省し、祈り直しました。
「色は銀色で、サドルは黒。それに大きめの買い物かごがついていて・・・」

自転車の色や形、大きさ、カゴの色とか荷台の形状、ハンドルのデザインなど、具体的にして祈ったのでした。

●翌日、教会清掃のボランティアの婦人が乗ってきた自転車をみて牧師はビックリしました。祈ったとおりの自転車がそこにあり、思わず「アッ」と声が出てしまったといいます。

しかもそのボランティア婦人は、牧師にむかってこう切り出したのです。

「先生、これは先月自分で買ったばかりの自転車なのですが、最近主人が私の誕生祝いにスクーターを買ってくれましたの。不要になってしまったのですが、もしよろしかったら、先生が役立ててくれませんか?」

牧師は絶叫しました。 「ハレルヤー!!」 と。

●祈りは具体的にしないといけないよ、という牧師のメッセージでした。

20年前のその説教が、なぜか中国の高速道路で思い出されたのです。

目が覚めた私は「そうだ、目的地をもっと具体的にしよう」と思い、ふたたび運転手の彼に目的地を書いた紙を手渡しました。

「杭州站」(杭州駅)

すると彼は、
「明白了」(ミンパイラ、「分かりました」)と言ってくれました。
かなり時間はかかりましたが、そのやりとり以降は不安も消えて、純粋に窓外の景色を楽しみました。

●白タクには二度と乗りたくありませんが、期待を明確にするという癖はその珍事以降さらに強まったように思います。

2010年06月11日(金)更新

藤樹先生

●「人の第一の目的とすべきは生活を正すことである」という言葉に接した11才の中江藤樹(なかえとうじゅ)少年は、思わずこう叫びました。「このような本があるとは。天に感謝する」「聖人たらんとして成りえないことがあろうか!」と、感極まって泣いたという少年藤樹。それだけでなく、この日の感動を終生忘れることなく、「聖人たらん」という大志を抱き続けたというから、何たるすごい人物でしょう。

●藤樹は、1608年生まれ。江戸時代が始まって5年後の生まれで、侍は武芸に励むのが常識とされた時代にあって、学者・教育者の道を歩みます。
のちに「日本の陽明学の祖」、「近江聖人」と言われるにいたるきっかけは幼少時の読書にありました。

●藤樹少年は単なる早熟な子供ではありませんでした。その後の成長ぶりがまたすさまじいのです。
そのあたりを物語る逸話として、内村鑑三著『代表的日本人』にあるエピソードからご紹介しましょう。

●脱藩して親孝行した藤樹

27才のとき、生家の母への孝養を名目に帰国を願い出るが許されず脱藩。藩主よりも母に尽くす道を選ぶにあたっては、相当悩んだようで家老に次のような手紙を書いています。

「二つの道のいずれをとるべきか、心の中で慎重にはかりました。主君は、私のような家来なら手当を出すことで、だれでも召し抱えることができます。しかし、私の老母は、こんな私以外にはだれも頼る者がいないのでございます。」

●母のもとにあって藤樹は心安らかではありましたが、母を慰めるものはなにもなかったといいます。家に帰り着いたとき藤樹がもっていたお金は百文でした。
(武沢註:4,000文が一両、一両が8万円とすると、藤樹が持っていた百文とは今の価値でわずか2,000円となります)

●その金で少しの酒を仕入れ、みずから行商人となってそれを売り歩いてわずかな日銭を手にしたといいます。また、「武士の魂」といわれた刀まで売って銀10枚を手にし、その金を村人に貸してわずかな利子でつつましく生計を維持したというから涙ぐましいですね。
しかも藤樹の金貸しは高利貸しではなく、人助けの低利貸しだったと言いますから「聖人たらん」という志の実践者といえましょう。

●翌年28才になって江戸時代の最初の私塾ともいわれる学校を開設しています。真の学者とはどういう人かと聞かれて藤樹はこう答えています。

「“学者”とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。」

●学者とは学識がある人ではなく徳がある人のことである、とは、まさしく卓見です。
学識経験者や学校エリートが国や行政を動かしていてはうまくいきません。藤樹が言う
"学者"が政治や経済のリーダーになる世の中を作りたいものです。

●ちょうど日本の政治も新しいリーダーを担いだばかり。
今の政治家の中に藤樹先生が認める"学者"が果たして何人いるか、ということです。それを嘆くだけなら誰でもできますが、自らが学者たらんと決心し、行動することの方が大切であることは言うまでもありません。

2010年06月04日(金)更新

修羅場をくぐる

●ある日の未明のこと、ふとんの中で苦しくなって目が覚めたS社長(55才)は、次の瞬間、「ウッ」とうなり声をだし、胸を押さえました。心臓の異変だとすぐにわかりました。家族が近くで寝ていたのですが助けを呼ぶことができないもどかしさ。

●救急車で運び込まれたのは循環器系では日本有数の病院でした。しかも当直医が循環器の医師でした。適切な処置がすぐになされたため、初日のヤマは越えました。ですが予断を許しませんでした。

●その後、実に12日間にわたって昏睡状態が続きました。その間、妻や長男が病院に呼ばれ、海外に留学していた次男も緊急帰国しました。

集中治療室の照明のまわりに蝶々がとんでいます。
ぼんやりとした意識の中で、「へぇ、最近の病院は顧客満足のためにこんなサービスもはじめたんだ」と思いました。幻覚をみながらそんなことを考えるのがS社長らしいところです。

●12日後、意識が戻ったとき看護士さんがベッド脇で歓声をあげました。
「あ!生きてる、奇跡だ」
かけつけた担当医までもが、
「よく助かったなぁ」
と言っています。
そんな会話が聞こえるということは、どうやら助かったらしいのです。

●話したいことがある、聞きたいことがある、ですが、すぐには会話ができませんでした。家族や医師と会話するための文字板を押そうとしても目的の文字を指せず、自分の親指ばかりを押しています。筋肉が弱っていて反応してくれないのです。

●「床ずれ」もひどい。皮膚の表面はカサカサに乾燥し、ベッドで足をトンとさせただけでそこから出血します。
人間の体って、食べることと運動することで維持できていたことを今さらながらに思い知りました。

●翌月になってS社長は退院し、長男の結婚式にも間に合いました。

本当に奇跡的な生還と退院でした。その病院で一年に一度使うことがあるかどうか、といわれる人口心肺機をつかいましたが、この装置をつかって退院できる人は少ないらしいのです。

●見舞いに訪れた私に向かってS社長はこうつぶやきました。

「たけちゃん、もう10年前になるかなぁ、あなたに言われて新卒の学生を採用しはじめたが、今、彼らが居てくれるから会社は支障なくやれている。彼らとかみさんのおかげだ。今ごろになって感謝しているようじゃ遅いけどね、ハハ。ぼくは信仰心は薄いほうだが、今回の件では、自分が助かったというよりは、何かに助けられたとしか思えないんだ。この命のつかいみちがまだあるのだぞ、と教えられた気分だよ」

●大好きな酒もゴルフもやれなくなったS社長ですが、生きるということの価値と重みを実感する毎日が始まっています。

修羅場をくぐった人は強い。
経営者を大きくさせる要素に、倒産(の危機)、入獄(の危機)、死(の危機)の三つがあると言われています。

闇から出てきて光のありがたさを知ったS社長の新たな経営者人生がスタートしたのです。

●以前から読書好きなS社長でしたが、今回の出来事があってから読書量は10倍になったそうです。
私がプレンゼントした吉川英治の『三国志』(講談社文庫)全八巻もわずか二日で読んでしまうのですから、以前より集中力が増したのかもしれません。

ボードメンバープロフィール

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武沢 信行氏

1954年生まれ。愛知県名古屋市在住の経営コンサルタント。中小企業の社長に圧倒的な人気を誇る日刊メールマガジン『がんばれ社長!今日のポイント』発行者(部数27,000)。メルマガ読者の交流会「非凡会」を全国展開するほか、2005年より中国でもメルマガを中国語で配信し、すでに16,000人の読者を集めている。名古屋本社の他、東京虎ノ門、中国上海市にも現地オフィスをもつ。著書に、『当たり前だけどわかっていない経営の教科書』(明日香出版社)などがある。

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