武沢信行の「社長の学校・事始め」 | 経営者会報 (社長ブログ)
社長業を極めるためのカリキュラムについて、「日本的経営のリニューアル」という視点から紹介します
ある母の手紙
●今から100年ほど前の明治45年、ある母親がアメリカにいる息子に宛てた手紙をご紹介しましょう。
この母親は幼いうちに両親と生き別れ、子供のころから働きに出たため、学校も満足に出ていませんでした。手紙には誤字も多いし句読点のうち方もヒドイ。でも息子の心をとらえてはなさしませんでした。そして、後に出世した息子の記念館にいまもこの手紙の実物が保存され、それを見た私の心まで打ってしまいました。
・・・
おまイのしせ(出世)にわ、みなたまけ(驚ろき)ました。わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまによこもり(夜篭り)をいたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)きりかない。(きりがない)いぼし。ほわ(烏帽子=近所の地名 には借金を返すようにいわれて)こまりおりますか。(困っています)
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。
ドか(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにこきかせません。それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかしさむいてわおかみ。
しております。きた(北)さむいてはおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわ しおたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄昌様=修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわおかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちちまちて(返事を待って)をりまする。ねてもねむれません。
・・・
●「1日も早く帰ってきてほしい、私は心細い」と息子に訴える母。この手紙の差出人は、野口シカさん、受取人は息子の野口英世です。
極貧の農家に生まれた野口清作(のち英世と改名)は、困窮していたシカさんにとって希望の星でした。ところが、一歳半のときに起こったあの有名な悲劇。
●我が子のすさまじい鳴き声に驚いて駆けつけてみると、清作がいろりの火の中に体ごとうつぶせに倒れこんでいたのです。あわてて抱き上げるシカ。ですが清作の左手が無残に焼けただれ、シカは苦痛と恐怖でぶるぶると震えていたといいます。場所は猪苗湖畔の寒村で、近くに医者はいません。もしいたとしても、払えるお金はありませんでした。
シカは一心不乱にお経を唱え、21日間にわたって観音様に願をかけながら寝ずの看病を続けます。
●幸い命は助かったものの、清作の左手は、親指が手首のところにねばりつき、中指は手のひらにねばりついて離れない。松の木のこぶのような醜い姿となってしまいました。
このとき、シカは清作の将来について悲観せざるを得なかったのです。
「こんな手では百姓はできない。この子を一生養ってゆかねば」
●シカは我が不注意を深く悔いました。そして息子を養っていく覚悟を固めます。
ですが予想外なことに、清作はヤワな男ではありませんでした。努力家の秀才だったのです。死に物狂いで学問に打ち込みました。睡眠時間は極端に短く、風呂焚きなどの仕事をしながらも読書し続けました。
そんな清作にやがて支援者があらわれたのです。
清作は、上京して医者を目指す決意をします。この時に、清作が自宅の柱に小刀で彫った言葉が今も残されています。
-志を得ざれば再び此地を踏まず-
私は野口英世記念館でこの彫り物をみました。
●学問が認められ、米国の研究所で助手を務めるなどをしながら栄達してゆく英世とは裏腹に、この頃のシカがもっとも財政的に苦しかったようです。そのとき、慣れぬ筆を取り上げて書いた手紙が冒頭のものです。
●たった100年前は、シカのような人たちが日本中にたくさん居ました。それを思うとずいぶん日本人の暮らしぶりが豊かになったことに素直に感謝したいと思います。
しかしその反面で、日本人の若者に青年・野口英世のような青雲の志があるかと問われたら、少々お寒い現状だと言わざるを得ません。また、豊かになったがゆえに親子の絆が失われつつあるのも感じます。
●消費税をどうするか、米軍基地をどこに置くかという問題も政治の争点かもしれませんが、日本人の若者をどうするか、日本の家庭をどうするかを論じる政治家が登場してほしいものです。私たち経営者は日夜そうした若者と格闘しているのですから。
この母親は幼いうちに両親と生き別れ、子供のころから働きに出たため、学校も満足に出ていませんでした。手紙には誤字も多いし句読点のうち方もヒドイ。でも息子の心をとらえてはなさしませんでした。そして、後に出世した息子の記念館にいまもこの手紙の実物が保存され、それを見た私の心まで打ってしまいました。
・・・
おまイのしせ(出世)にわ、みなたまけ(驚ろき)ました。わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまによこもり(夜篭り)をいたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)きりかない。(きりがない)いぼし。ほわ(烏帽子=近所の地名 には借金を返すようにいわれて)こまりおりますか。(困っています)
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。
ドか(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにこきかせません。それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかしさむいてわおかみ。
しております。きた(北)さむいてはおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわ しおたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄昌様=修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわおかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちちまちて(返事を待って)をりまする。ねてもねむれません。
・・・
●「1日も早く帰ってきてほしい、私は心細い」と息子に訴える母。この手紙の差出人は、野口シカさん、受取人は息子の野口英世です。
極貧の農家に生まれた野口清作(のち英世と改名)は、困窮していたシカさんにとって希望の星でした。ところが、一歳半のときに起こったあの有名な悲劇。
●我が子のすさまじい鳴き声に驚いて駆けつけてみると、清作がいろりの火の中に体ごとうつぶせに倒れこんでいたのです。あわてて抱き上げるシカ。ですが清作の左手が無残に焼けただれ、シカは苦痛と恐怖でぶるぶると震えていたといいます。場所は猪苗湖畔の寒村で、近くに医者はいません。もしいたとしても、払えるお金はありませんでした。
シカは一心不乱にお経を唱え、21日間にわたって観音様に願をかけながら寝ずの看病を続けます。
●幸い命は助かったものの、清作の左手は、親指が手首のところにねばりつき、中指は手のひらにねばりついて離れない。松の木のこぶのような醜い姿となってしまいました。
このとき、シカは清作の将来について悲観せざるを得なかったのです。
「こんな手では百姓はできない。この子を一生養ってゆかねば」
●シカは我が不注意を深く悔いました。そして息子を養っていく覚悟を固めます。
ですが予想外なことに、清作はヤワな男ではありませんでした。努力家の秀才だったのです。死に物狂いで学問に打ち込みました。睡眠時間は極端に短く、風呂焚きなどの仕事をしながらも読書し続けました。
そんな清作にやがて支援者があらわれたのです。
清作は、上京して医者を目指す決意をします。この時に、清作が自宅の柱に小刀で彫った言葉が今も残されています。
-志を得ざれば再び此地を踏まず-
私は野口英世記念館でこの彫り物をみました。
●学問が認められ、米国の研究所で助手を務めるなどをしながら栄達してゆく英世とは裏腹に、この頃のシカがもっとも財政的に苦しかったようです。そのとき、慣れぬ筆を取り上げて書いた手紙が冒頭のものです。
●たった100年前は、シカのような人たちが日本中にたくさん居ました。それを思うとずいぶん日本人の暮らしぶりが豊かになったことに素直に感謝したいと思います。
しかしその反面で、日本人の若者に青年・野口英世のような青雲の志があるかと問われたら、少々お寒い現状だと言わざるを得ません。また、豊かになったがゆえに親子の絆が失われつつあるのも感じます。
●消費税をどうするか、米軍基地をどこに置くかという問題も政治の争点かもしれませんが、日本人の若者をどうするか、日本の家庭をどうするかを論じる政治家が登場してほしいものです。私たち経営者は日夜そうした若者と格闘しているのですから。
ボードメンバープロフィール
武沢 信行氏
1954年生まれ。愛知県名古屋市在住の経営コンサルタント。中小企業の社長に圧倒的な人気を誇る日刊メールマガジン『がんばれ社長!今日のポイント』発行者(部数27,000)。メルマガ読者の交流会「非凡会」を全国展開するほか、2005年より中国でもメルマガを中国語で配信し、すでに16,000人の読者を集めている。名古屋本社の他、東京虎ノ門、中国上海市にも現地オフィスをもつ。著書に、『当たり前だけどわかっていない経営の教科書』(明日香出版社)などがある。
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