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武士道

投稿日時:2013/04/26(金) 09:30rss

●ある日、三島由紀夫を題材にした映画を観た。たいへん重くて複雑な気分になる映画だったが、もっと彼の心の奥が知りたくなって『葉隠入門』(三島由紀夫著)を読んでみた。そのなかにこんな一節を見つけた。
 
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なによりもまず外見的に、武士はしおたれてはならず、くたびれてはならない。人間であるからたまにはしおたれることも、くたびれることも当然で、武士といえども例外ではない。しかし、モラルはできないことをできるように要求するのが本質である。
そして、武士道というものは、そのしおれた、くたびれたものを、表へ出さぬようにと自制する心の政治学であった。健康であることよりも健康に見えることを重要と考え、勇敢であることよりも勇敢に見えることを大切に考える、このような道徳観は、男性特有の虚栄心に生理的基礎を置いている点で、もっとも男性的な道徳観といえるかもしれない。
・・・
 
●『葉隠』というと有名な一節がある。それは、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」というものだが、そのフレーズだけを聞いて『葉隠』を腹切りのススメと解釈してはいけない。三島に言わせれば、『葉隠』は武士の自由と情熱を説いた本らしい。私はこの本から自由と情熱を感じるまでには至っていないが、現代人にも通用する道徳書だと思った。
 
●「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という印象的な一節がひとり歩きしているが、古来、武士はたえず自らの死に場所と死に様を想像し、覚悟しておくことが必要だった。それによってはじめて潔い生き方ができると考えていたのだ。生き様と死に様は表裏一体のものであるというわけだ。
 
●平成の今日、昔にくらべて平和な世の中になったことは好ましいことだが、現代人が死ぬ時は、事故か病気。
死に場所は病院か自宅のベッドの上である確率が高い。価値あるものにこの命を捧げたいという願望はあっても、結局はベッドの上が平和なのだろう。死に場所が決まっているのなら、この価値ある命を日常の生活や仕事のために燃焼させよう。
 
●まとまりがつかなくなったので、三島由紀夫の訳を参考に『葉隠』を少しつまみ食いしてみよう。
 
○仕事に関しては、大高慢で死に狂いするくらいがいい。雑務方は、知らぬがよし。武士である以上、武勇に関しては大高慢で、死に狂いするくらいの覚悟が必要である。つね日ごろの考え方、ものの言いよう、身のこなしなど、すべて綺麗にしようと心がけて、つねにつつしむべきである。一生の仕事は、人のためになることばかりを考え、よけいなことは知らないほうがよい。
 
<武沢意訳>武勇に関しては高慢・・・自分の仕事に関してはもっと胸を張って威張れるようになれ。必要以上にへりくだるな! 武士ならば、雑学やうんちくは語るな!
 
○自分の目的の障害になるのなら、神仏に嫌われてもかまわない。神はけがれを嫌うが、戦場で血を浴びたり死人を足げにして働いているときの武運長久を祈るために信心を大切にせよ。けがれが身についているとそっぽを向いてしまうような神仏であったら、それも仕方のないこと。自分のけがれのいかんにかかわらず、神仏を礼拝しよう。
 
<武沢意訳>「神仏よりも職務の遂行」。もちろん正しい理想と理念があってのこと。
 
○成り上がり者を馬鹿にしないこと奉公人も下賤から身を起こして高い身分にまでなった人というのはその人なりの徳や能力が備わっていたから立派なこと。はじめからその地位にあった人よりは、下々からのぼってその地位についた人を我々は尊敬しなければならない。
 
<武沢意訳>セレブの子息よりも成り上がり者と付き合え!
 
★『葉隠入門』(三島由紀夫著)新潮文庫より
 
 
 

ボードメンバープロフィール

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武沢 信行氏

1954年生まれ。愛知県名古屋市在住の経営コンサルタント。中小企業の社長に圧倒的な人気を誇る日刊メールマガジン『がんばれ社長!今日のポイント』発行者(部数27,000)。メルマガ読者の交流会「非凡会」を全国展開するほか、2005年より中国でもメルマガを中国語で配信し、すでに16,000人の読者を集めている。名古屋本社の他、東京虎ノ門、中国上海市にも現地オフィスをもつ。著書に、『当たり前だけどわかっていない経営の教科書』(明日香出版社)などがある。

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