武沢信行の「社長の学校・事始め」 | 経営者会報 (社長ブログ)
社長業を極めるためのカリキュラムについて、「日本的経営のリニューアル」という視点から紹介します
2010年07月23日(金)更新
社長が考えていること(1)
なにかを生みだそうと紙と鉛筆(またはパソコン)を手にして考えることが大切です。書いて書いて書きまくっていくと、やがて指が勝手に考えてくるようになります。
●先日の「海の日」の連休を利用して『社長のための計画合宿』を名古屋で開催しました。15人の社長が自社の経営理念や経営戦略を紙に落とし込んでいきます。一泊二日とはいえ、正味10数時間はアッという間に過ぎてしまいます。
そんな合宿の過ごし方をみていると、生産的な社長は書きまくって考えていますが、生産的でない社長は腕組みをし、虚空を見上げながらウンウンとうなっています。
●すでにあらゆる社長が、あらゆる問題について考えてきました。そうした先人の知恵を活用し、いただけるアイデアはどんどん吸収していけば良いのです。
中小企業の経営者は今まで何を考えてきたのでしょうか。
「あなたは今、何を望んでいますか?」をWish Listにしてくださいと私はお願いしています。多い人は1,000個以上のWishを書いてこられます。少ない人でも100個くらいはすぐに書けます。リストの中味は経営だけに限らず、健康のことや学習、教養、知識、精神、家庭、経済、趣味や娯楽など自由に書いてもらいます。ただし、二つだけ約束事があります。一つは、ポジティブに書くこと。「資金繰りが悪い」と書くのではなく、「潤沢な資金がある会社にしたい」と書く方が希望がもてるからです。
もう一つは、なるべくイメージが湧くように書くことです。「フランスへ行きたい」と書くよりは、「ルーブルでモナリザに対面したい」とか「三つ星レストランでフレンチ料理を楽しみながらボルドーワインを満喫したい」と書く方がリアリティがあってワクワクします。
●今日はそんな「Wish List」の中から、経営に関することだけを拾い集めてみましたので、ちょっと見てみましょう。
■1.理念・ビジョン関係
・きっちりと成文化した経営理念を作りたい
・理念を組織内に浸透させ、実践したい
・会社の将来に対して明るい希望がもてるようなビジョンを作りたい
・ビジョナリーカンパニーになりたい
■2.業績と財務関係
・絶対つぶれない会社になりたい
・100年続く会社になりたい
・売上高を増やしたい(χ年でy倍にしたい)
・利益率が高い会社にしたい
・年商に匹敵する現預金をもちたい
・長期にわたって増収増益を続ける会社にしたい
・無借金企業にしたい
・自己資本比率をχ%以上にしたい
・ROA(総資本利益率)をχ%以上にしたい
・株式公開できる会社になりたい
・買収されるような会社になりたい
・後継者が継ぎたいと思えるようなピカピカの会社にしたい
■3.社員関係
・社員の平均年収を業界平均のχ%アップでキープしたい
・社員が指示待ちではなく、自分で率先して仕事を創ってほしい
・年収1,000万円プレーヤーを社員の中から出してやりたい
・社員とその家族から我社で働いてきて良かったと言われたい
・社員の愛社精神が高い会社員したい
・報告・連絡・相談がきっちりできる人材ばかりにしたい
・時間や納期に対してシビアな社風を作り上げたい
・社員ひとりひとりに人生ビジョンを作らせたい
・社員から毎年最低一人、新規事業部門の社長を育てたい
・10年計画くらいのスパンで複数の若手後継者を育成・選抜する
・有給休暇が堂々と取れ、完全消化できる会社になる
・優秀な若者が毎年入社してくるような会社にしたい
・高齢者でも働ける会社、高齢者が入社してくる会社にしたい
・社員旅行を年二回開催し、一回は国外旅行にしたい
・社員教育の体系を整備したい
・女性人材が入社し、定着し活躍できる会社にしたい
・福利厚生の一環として、プロ野球のシーズン券を確保したい
■4.営業関係
・手形を切らない、もらわない
・新規開拓力の強い営業部隊を作りたい
・営業が営業の仕事をしていないので、営業活動に専念させたい
・全国の主要都市に営業拠点網を完成させたい
・中国やアジア諸国との貿易を開始したい
・自社開発のオリジナル商品の比率を高め、下請け依存度を下げたい
・口コミでお客が広がる状態を作りたい
・無事故無災害の会社になる
・会社案内を始めとした営業ツールを毎年アップデートしたい
・毎朝朝礼前の10分間を読書時間とし、読書の習慣を全員がもつ
<続きは次回。あなたも「Wish List」を作ってみましょう!>
2010年07月16日(金)更新
士の心
志というものは、何かになろうとするために作るものではなく、いかにあるべきかの基準を定めることのほうが大切なのだと思います。
●吉田松陰が叔父・玉木文之進の嫡子、毅甫(きすけ)の元服に際して贈ったことばがあります。このときの文章がのちの松下村塾の士規七則につながっています。
1.およそ生をこの世に受けて人となったからには、人が禽獣(きんじゅう)と異なるゆえんをしらなければならない。思うに人には五倫がある。そのうち君臣、父子の道が最も大切である。だから人の人である真面目は、忠孝を根本とすることにある。
2.およそ皇国に生まれたからには、わが国が世界各国より尊いわけを知っていなければならない。思うに、皇室は万世一系であり、士や大夫は代々禄を受け地位を継いでいる。
君主は人民を養い、祖業を継がれ、臣民は君主に忠義を尽くし、もって父の志を継いでいる。君民一体、忠孝一致、これはわが国だけの特色である。
3.士の道は、義より大切なものはない。義は勇気によって実行され、勇気は義によってますます発揮される。
4.士の行為は質実で自分の心を欺かないことが肝要である。いつわりに巧みであったり、あやまちを飾りごまかすことを恥とする。心が明白で邪心なく、行ないが正しく堂々としているのは、みなここが出発点なのである。
5.人たる者で、古今の学問に通ぜず、聖賢を師とせず、自己の修業をおこたるようでは、心のいやしいままで終わってしまうだ けである。読書や賢人を友人とするのは君子のなすべきことである。
6.徳を厚くし才能を磨くには、師の恩や友人の益によるところが大きい。それゆえ君子は人との交際を慎重にする。
7.死してのちやむの四字(死而後己)は、言葉は簡単であるがその意味は広い。堅くたえ忍び、果断に実行し、断固として心を変えないのは、この死してのちやむの精神をほかにしては道がないのである。
●いかがでしょうか。
何かになろうとする目標より、いかに生きるべきかを重視する姿勢は当然のことかも知れません。なぜなら、もし士(さむらい)が何かになろうとする目標をもつとしたら、いつ下克上の世の中になるかわかりません。
志とは士の心と書くごとく、立身栄達よりも、心を大切にすることです。
日常のなかに義を元にした研ぎ澄ました生き方をすることが当時の士の志だったのでしょう。
私たちもそうした部分を忘れずに持っていたいものです。
2010年07月09日(金)更新
海援隊約規に学ぶ
【海援隊約規 原文】
一.凡嘗テ本藩(土佐)ヲ脱スル者及佗(他)藩ヲ脱スル者、海外ノ志アル者此隊ニ入ル。
運輸、射利、開柘(拓)、投機、本藩ノ応援ヲ為スヲ以テ主トス。
今後自他ニ論ナク其志ニ従ッテ撰入之。
二.凡隊中ノ事一切隊長ノ処分ニ任ス。敢テ或ハ違背スル勿レ。若暴乱事ヲ破リ妄謬害ヲ引ニ至テハ隊長其死活ヲ制スルモ亦許ス。
三.凡隊中忠難相救ヒ困厄相護リ、義気相責メ条理相糺シ、若クワ独断果激、儕輩ノ妨ヲ成シ、若クハ儕輩相推シ乗勢テ他人ノ妨を為ス、是尤慎ム可キ所敢テ或犯ス勿レ。
四.凡隊中修業分課ハ政法、火技、航海、汽機、語学等の如キ其志ニ随テ執之。
互ニ相勉励敢テ或ハ懈ルコト勿レ。
五.凡隊中所費ノ銭糧其の自営ノ功に取ル。亦互ニ相分配シ私スル所アル勿レ。
若挙事用度不足、或ハ学科欠乏を致ストキハ隊長建議シ、出崎官ノ給弁ヲ竢ツ。
右五則ノ海援隊約規、交法簡易、何ゾ繁砕ヲ得ン。モト是翔天ノ鶴其ノ飛ブ所ニ任ス。豈樊中ノ物ナランヤ。今後海陸ヲ合セ号シテ翔天隊ト言ハン。亦究意此ノ意ヲ失スル勿レ。
【海援隊約規 武沢訳】
一.およそかつて本藩を脱する者、他藩を脱する者、内外に志ある者、みなこの隊に入る資格あり。運輸、営利活動、開拓、投機、本藩の応援をもって主業務とする。今後、異論なくば方針にかなう業務はこれに加わる。
二.およそ隊中のことのいっさいは隊長の処分にまかせる。隊員は、隊長の指示方針などに違背してはならない。もし暴乱、違反行為、隊に対する迷惑行為などがあれば、隊長がその死活を制することを許す。
三.隊中にあっては、互いの困難を助けあい、守りあい、互いの気分が緩んでいるときには責めあい、道理や筋道の通らぬことは正しあい、独断で過激な行為に走るのを制しあうこと。仲間の邪魔をしたり、集団で他人の行為の邪魔をするなどの行為は、もっとも慎むべき所で決してこれを犯してはならない。
四.隊中の修業分課は、政法、火技、航海、汽機、語学等のごとき、その志に従ってこれを学ぶ。互いに勉励し、怠ってはならない。
五.隊中の活動は独立採算。活動に要する経費などは、隊の活動で得た利益でまかなうこと。収益は互いに分配し、私腹を肥やしてはならない。万が一、資金が足りず、修業に支障がでるような場合には、隊長が建議し、出 崎官役(後藤象二郎)の支給をまつこと。
以上五則の海援隊の約規は実に簡素なものである。事細かな規則など必要ない。我々は天を翔ける鶴、その飛ぶ所にまかす。鳥かごの中に入るものではない。今後、海の海援隊だけでなく、陸をもあわせて「翔天隊」と言わん。この理想と精神を忘れてはならない。
●いかがでしょう、龍馬の真剣味が伝わってくるようですね。
事実、海援隊の活動は本格的なものでした。第四条に出てくる「政法」とは、政治活動に関するもので、後に政治的出版物を発行することにつながっています。
また、「火技」「航海」「汽機」に関してはそれぞれの専門家が隊内にいたほか、龍馬の師である勝海舟から神戸海軍操練所で教えを受けるなど、最先端教育をほどこしていたのが「海援隊」なのです。
●あなたの会社にとって「約規」に相当するものが「就業規則」でしょう。
しかし就業規則は「労働基準法に準拠している会社ですよ」ということを労基署に示すために作られたものが多いはずです。社長の理想や思想が入っているものは少ないでしょう。これを機会に、就業規則とは別に「海援隊約規」に相当するものを作ってみてはいかがでしょうか。
●就業規則を分かりやすく解説した「社員ブック」を作ろうと説く人がいます。経営理念やクレドを作り、それをカードにして毎朝唱和しようという人もいます。
「経営計画書」や「経営マニフェスト」を作ってそれを毎日1ページずつ音読するという人もいます。
形式ややり方は何でも構いません。大切なことは、全員がそれを読んで魂が鼓舞され、自分達が目指しているものや仕事遂行上の原理原則を確認できる簡潔なものが良いと思います。
2010年07月02日(金)更新
酒を飲むのも仕事
この原稿を書いている段階ではまだ決勝トーナメント初戦(パラグアイ戦)が始まっていないので先行き不透明ですが、どこかの段階で祝勝会かご苦労さん会をやるでしょう。そんな時の酒は本当に美味いだろうと思います。これぞ勝利の美酒というもの。
●昔、戦国時代のある名将は戦に大勝し、部下に酒を振る舞おうとしましたが酒が足りなかった。そこで、酒を川に投じてみなでそれを汲んで飲んだといいます。川水で酔うわけがありませんが、名将の思いやりに部下は酔いしれたことでしょう。
●「福」を分かち合うということを「分福」といいます。一方、「福」を将来のために取っておくことを「惜福」といいます。
うまい酒はみんなで分かち合って飲もう!というのが「分福」で、うまい酒は一晩で飲まず、毎晩一人でチビチビやろうというのが「惜福」なのです。どちらも大切ですが、リーダーにふさわしいのは「分福」の方でしょう。
●私は仕事で各地を回りますが、旅先ではかならず現地の人と酒を酌み交わします。誘われることが多いのですが、時にはこちらから誘います。地酒や地の魚がうまい名店へ行くこともあれば、みなでワイワイと大衆酒場へ繰り出すこともあります。
●酒場ではお互いがもっている愉快な話題やおもしろい経験、アイデアなどを「分福」するのが目的で、司会者が話題を仕切って飲む酒はうまくありません。ゆったりと自然に話題が移ろっていき、面白おかしく談笑しながら料理と酒に舌鼓を打つような飲み会が好きです。
●ある時、私の講演を聞いた受講者からこんなメールを受け取ったことがあります。学生や子供じゃないのだから、もっと主体的に飲みなさいと返答申し上げたのですが、あなたはどのようにお考えでしょうか。
「武沢さん、先日の講演をお聞きした○○と申します。講演の内容はとても素晴らしく、参考になりました。二次会でももっと素の武沢さんのお話が聞けると思っていましたら、ほとんど皆さんとの雑談ばっかりで、私には時間がもったいなく感じられました。ご講演の内容を掘り下げるようなお話をして下さるか、逆に我々にむかってなにか質問して下さるような時間があれば良かったのにと、少々残念な思いでした。」
●酒場で仕事の話がガンガンできる人もいます。適度に酒を飲んで魂と魂のぶつかり合いをやろうという考えです。
たとえば、京セラの稲盛和夫名誉会長は「お酒を飲みながらコンパを命がけで行う事が大切」と説いています。経営にはフィロソフィーの共有化が大切であり、そのためにはコンパが一番だというのです。
私は酒を飲むとまじめな話をするのが苦手になるので稲盛さんのマネはできませんが、京セラ流コンパのやり方を知っておくことは経営者のためになると思うのでご紹介します。
・広い畳敷きの部屋を貸し切る(または作る)
・車座の中心人物もしくは司会者が一人一人を指して発言を求め、本音で議論を戦わせていく。
・上司が部下の酒をつぐ(なるべく部下に不要な気を使わせない)
・酒を飲むし、切らさない。だが、飲めない人には強要しない
・だいたいの終了時刻を決めておき、お開きのときには一人ひとこと決意表明する
・中座しない、させない(携帯電話禁止)
・テーマを明確にし、真剣な議論をする
・ジョークは必要だが、脱線話は許さない
●酒を「分福」の場にするか、それとも魂のぶつけ合いにするか。
「TPOによって酒の飲み方を使い分けられる人間になろうではないか」というのが面白みに欠ける今日の私の結論ですが、私はあなたの酒席の哲学をお聞きしてみたいと思っています。ご意見お寄せください。
2010年06月25日(金)更新
ある母の手紙
この母親は幼いうちに両親と生き別れ、子供のころから働きに出たため、学校も満足に出ていませんでした。手紙には誤字も多いし句読点のうち方もヒドイ。でも息子の心をとらえてはなさしませんでした。そして、後に出世した息子の記念館にいまもこの手紙の実物が保存され、それを見た私の心まで打ってしまいました。
・・・
おまイのしせ(出世)にわ、みなたまけ(驚ろき)ました。わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまによこもり(夜篭り)をいたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)きりかない。(きりがない)いぼし。ほわ(烏帽子=近所の地名 には借金を返すようにいわれて)こまりおりますか。(困っています)
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。
ドか(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにこきかせません。それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかしさむいてわおかみ。
しております。きた(北)さむいてはおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわ しおたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄昌様=修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわおかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちちまちて(返事を待って)をりまする。ねてもねむれません。
・・・
●「1日も早く帰ってきてほしい、私は心細い」と息子に訴える母。この手紙の差出人は、野口シカさん、受取人は息子の野口英世です。
極貧の農家に生まれた野口清作(のち英世と改名)は、困窮していたシカさんにとって希望の星でした。ところが、一歳半のときに起こったあの有名な悲劇。
●我が子のすさまじい鳴き声に驚いて駆けつけてみると、清作がいろりの火の中に体ごとうつぶせに倒れこんでいたのです。あわてて抱き上げるシカ。ですが清作の左手が無残に焼けただれ、シカは苦痛と恐怖でぶるぶると震えていたといいます。場所は猪苗湖畔の寒村で、近くに医者はいません。もしいたとしても、払えるお金はありませんでした。
シカは一心不乱にお経を唱え、21日間にわたって観音様に願をかけながら寝ずの看病を続けます。
●幸い命は助かったものの、清作の左手は、親指が手首のところにねばりつき、中指は手のひらにねばりついて離れない。松の木のこぶのような醜い姿となってしまいました。
このとき、シカは清作の将来について悲観せざるを得なかったのです。
「こんな手では百姓はできない。この子を一生養ってゆかねば」
●シカは我が不注意を深く悔いました。そして息子を養っていく覚悟を固めます。
ですが予想外なことに、清作はヤワな男ではありませんでした。努力家の秀才だったのです。死に物狂いで学問に打ち込みました。睡眠時間は極端に短く、風呂焚きなどの仕事をしながらも読書し続けました。
そんな清作にやがて支援者があらわれたのです。
清作は、上京して医者を目指す決意をします。この時に、清作が自宅の柱に小刀で彫った言葉が今も残されています。
-志を得ざれば再び此地を踏まず-
私は野口英世記念館でこの彫り物をみました。
●学問が認められ、米国の研究所で助手を務めるなどをしながら栄達してゆく英世とは裏腹に、この頃のシカがもっとも財政的に苦しかったようです。そのとき、慣れぬ筆を取り上げて書いた手紙が冒頭のものです。
●たった100年前は、シカのような人たちが日本中にたくさん居ました。それを思うとずいぶん日本人の暮らしぶりが豊かになったことに素直に感謝したいと思います。
しかしその反面で、日本人の若者に青年・野口英世のような青雲の志があるかと問われたら、少々お寒い現状だと言わざるを得ません。また、豊かになったがゆえに親子の絆が失われつつあるのも感じます。
●消費税をどうするか、米軍基地をどこに置くかという問題も政治の争点かもしれませんが、日本人の若者をどうするか、日本の家庭をどうするかを論じる政治家が登場してほしいものです。私たち経営者は日夜そうした若者と格闘しているのですから。
2010年06月18日(金)更新
ある牧師の祈り
●お金を節約するためにこんなハラハラドキドキするなんて馬鹿だったと後悔しましたが、車は猛スピードでどこかへ向かっています。また、そんなときに限って道路案内標識がなかなか現われません。ますます不安が募り、私は心のなかで「神様、お助け下さい」と祈る気持ちになりました。
●すると5分もしないうちに急に眠くなり、ウトウトしはじめました。
そのウトウトの瞬間、不思議なことに20年前に聞いたキリスト教の牧師のメッセージが思い出されました。
その牧師は、まだかけ出しの頃とても貧しかったそうです。信者からの献金や献品で辛うじて糊口をしのいでいましたが、布教活動するための自転車がありませんでした。徒歩による宣教活動だけでは限界があります。そこで牧師は神に祈りました。
「神さま、あなたの栄光を表すために私は自転車を必要としています。どうか、自転車を私にさずけて下さい。アーメン!」
●一ヶ月たち、二ヶ月たち、とうとう半年が経過しました。それなのにいっこうに自転車が手に入りません。その牧師は神様に確認する意味もこめて、こう祈ったそうです。
「神さま、私は全時間をあなたに捧げています。でも自転車がなくて毎日の活動はとても不自由を感じています。もし、御心にかなうならば一日でも早く自転車を私に授けてください。それとも、私の活動は御心にかなわないのでしょうか?」
●すると、そのときは神から返答が来たそうです。
「あなたの祈りは毎日聞いている。あなたの願いをかなえてあげたいとそのたびに思う。だが、いつもあなたは"自転車が欲しい"としか言わない。私はどんな自転車をそなたに授けてよいのか分からないのだ。もっと具体的に祈ってくれ」
●牧師は「そうかぁ、しまった。私が浅はかだった」と反省し、祈り直しました。
「色は銀色で、サドルは黒。それに大きめの買い物かごがついていて・・・」
自転車の色や形、大きさ、カゴの色とか荷台の形状、ハンドルのデザインなど、具体的にして祈ったのでした。
●翌日、教会清掃のボランティアの婦人が乗ってきた自転車をみて牧師はビックリしました。祈ったとおりの自転車がそこにあり、思わず「アッ」と声が出てしまったといいます。
しかもそのボランティア婦人は、牧師にむかってこう切り出したのです。
「先生、これは先月自分で買ったばかりの自転車なのですが、最近主人が私の誕生祝いにスクーターを買ってくれましたの。不要になってしまったのですが、もしよろしかったら、先生が役立ててくれませんか?」
牧師は絶叫しました。 「ハレルヤー!!」 と。
●祈りは具体的にしないといけないよ、という牧師のメッセージでした。
20年前のその説教が、なぜか中国の高速道路で思い出されたのです。
目が覚めた私は「そうだ、目的地をもっと具体的にしよう」と思い、ふたたび運転手の彼に目的地を書いた紙を手渡しました。
「杭州站」(杭州駅)
すると彼は、
「明白了」(ミンパイラ、「分かりました」)と言ってくれました。
かなり時間はかかりましたが、そのやりとり以降は不安も消えて、純粋に窓外の景色を楽しみました。
●白タクには二度と乗りたくありませんが、期待を明確にするという癖はその珍事以降さらに強まったように思います。
2010年06月11日(金)更新
藤樹先生
●藤樹は、1608年生まれ。江戸時代が始まって5年後の生まれで、侍は武芸に励むのが常識とされた時代にあって、学者・教育者の道を歩みます。
のちに「日本の陽明学の祖」、「近江聖人」と言われるにいたるきっかけは幼少時の読書にありました。
●藤樹少年は単なる早熟な子供ではありませんでした。その後の成長ぶりがまたすさまじいのです。
そのあたりを物語る逸話として、内村鑑三著『代表的日本人』にあるエピソードからご紹介しましょう。
●脱藩して親孝行した藤樹
27才のとき、生家の母への孝養を名目に帰国を願い出るが許されず脱藩。藩主よりも母に尽くす道を選ぶにあたっては、相当悩んだようで家老に次のような手紙を書いています。
「二つの道のいずれをとるべきか、心の中で慎重にはかりました。主君は、私のような家来なら手当を出すことで、だれでも召し抱えることができます。しかし、私の老母は、こんな私以外にはだれも頼る者がいないのでございます。」
●母のもとにあって藤樹は心安らかではありましたが、母を慰めるものはなにもなかったといいます。家に帰り着いたとき藤樹がもっていたお金は百文でした。
(武沢註:4,000文が一両、一両が8万円とすると、藤樹が持っていた百文とは今の価値でわずか2,000円となります)
●その金で少しの酒を仕入れ、みずから行商人となってそれを売り歩いてわずかな日銭を手にしたといいます。また、「武士の魂」といわれた刀まで売って銀10枚を手にし、その金を村人に貸してわずかな利子でつつましく生計を維持したというから涙ぐましいですね。
しかも藤樹の金貸しは高利貸しではなく、人助けの低利貸しだったと言いますから「聖人たらん」という志の実践者といえましょう。
●翌年28才になって江戸時代の最初の私塾ともいわれる学校を開設しています。真の学者とはどういう人かと聞かれて藤樹はこう答えています。
「“学者”とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。」
●学者とは学識がある人ではなく徳がある人のことである、とは、まさしく卓見です。
学識経験者や学校エリートが国や行政を動かしていてはうまくいきません。藤樹が言う
"学者"が政治や経済のリーダーになる世の中を作りたいものです。
●ちょうど日本の政治も新しいリーダーを担いだばかり。
今の政治家の中に藤樹先生が認める"学者"が果たして何人いるか、ということです。それを嘆くだけなら誰でもできますが、自らが学者たらんと決心し、行動することの方が大切であることは言うまでもありません。
2010年06月04日(金)更新
修羅場をくぐる
●救急車で運び込まれたのは循環器系では日本有数の病院でした。しかも当直医が循環器の医師でした。適切な処置がすぐになされたため、初日のヤマは越えました。ですが予断を許しませんでした。
●その後、実に12日間にわたって昏睡状態が続きました。その間、妻や長男が病院に呼ばれ、海外に留学していた次男も緊急帰国しました。
集中治療室の照明のまわりに蝶々がとんでいます。
ぼんやりとした意識の中で、「へぇ、最近の病院は顧客満足のためにこんなサービスもはじめたんだ」と思いました。幻覚をみながらそんなことを考えるのがS社長らしいところです。
●12日後、意識が戻ったとき看護士さんがベッド脇で歓声をあげました。
「あ!生きてる、奇跡だ」
かけつけた担当医までもが、
「よく助かったなぁ」
と言っています。
そんな会話が聞こえるということは、どうやら助かったらしいのです。
●話したいことがある、聞きたいことがある、ですが、すぐには会話ができませんでした。家族や医師と会話するための文字板を押そうとしても目的の文字を指せず、自分の親指ばかりを押しています。筋肉が弱っていて反応してくれないのです。
●「床ずれ」もひどい。皮膚の表面はカサカサに乾燥し、ベッドで足をトンとさせただけでそこから出血します。
人間の体って、食べることと運動することで維持できていたことを今さらながらに思い知りました。
●翌月になってS社長は退院し、長男の結婚式にも間に合いました。
本当に奇跡的な生還と退院でした。その病院で一年に一度使うことがあるかどうか、といわれる人口心肺機をつかいましたが、この装置をつかって退院できる人は少ないらしいのです。
●見舞いに訪れた私に向かってS社長はこうつぶやきました。
「たけちゃん、もう10年前になるかなぁ、あなたに言われて新卒の学生を採用しはじめたが、今、彼らが居てくれるから会社は支障なくやれている。彼らとかみさんのおかげだ。今ごろになって感謝しているようじゃ遅いけどね、ハハ。ぼくは信仰心は薄いほうだが、今回の件では、自分が助かったというよりは、何かに助けられたとしか思えないんだ。この命のつかいみちがまだあるのだぞ、と教えられた気分だよ」
●大好きな酒もゴルフもやれなくなったS社長ですが、生きるということの価値と重みを実感する毎日が始まっています。
修羅場をくぐった人は強い。
経営者を大きくさせる要素に、倒産(の危機)、入獄(の危機)、死(の危機)の三つがあると言われています。
闇から出てきて光のありがたさを知ったS社長の新たな経営者人生がスタートしたのです。
●以前から読書好きなS社長でしたが、今回の出来事があってから読書量は10倍になったそうです。
私がプレンゼントした吉川英治の『三国志』(講談社文庫)全八巻もわずか二日で読んでしまうのですから、以前より集中力が増したのかもしれません。
2010年05月28日(金)更新
知恵のみを追う
小さい志ではなくて、大きな志をもつことをクラーク博士は説きました。クラークさんに言われるまでもなく、日本でも江戸時代の儒学者・貝原益軒は次のように述べています。
「志を立つるは大にして高きを欲し、小にして低きを欲せず」
●洋の東西を問わず、先人たちは後輩にむかって「大きな志を持て」と教えるのはなぜでしょうか?
それは困難なことだからです。むしろ、けがれの少ない若者こそ大志は抱けるが、大人や老人になるとだんだんそれができにくくなるのかもしれません。
●ルソーにいたっては、人間の欲望はいつまでたっても肉欲だと次のように皮肉っています。
「十歳にしては菓子に動かされ、二十歳にしては恋人に、三十歳にしては快楽に、四十歳にしては野心に、五十歳にしては貪欲に動かされる。いつになったら、人はただ知恵のみを追うて進むのであろう」
●大きい志とは、"業界初"とか、"日本一"とか、"世界一" などの相対的なものであってはならないでしょう。ライバルが失敗すれば自社が得するような目標や志であってはうまくいきません。
ルソーが言う「知恵」のみを追う生き方をしたいものです。知識ではなく知恵を求める行為には合格もなければ終わりもないのです。
●会社経営にとっての「知恵」とは何でしょうか?
最近は品質問題で叩かれ、社長自ら米国の公聴会によばれたトヨタ。途中、きびしく追及される場面もありましたが、委員長自ら「あなたが自分から進んで来たという事実に私が感銘を受けたということを知ってほしい」と述べ、日本の自動車メーカーのトップに敬意を払いました。
企業の責任を負うためには真実を明らかにせねばならない。そのためならば、世界中どこへでも出かけていくという経営者の姿勢が功を奏したようです。
●そのトヨタから国民の大衆車の定番・カローラが出たのはまだ40年ほど前のこと。当時のトヨタは、収益でも財務でも人材でもノウハウでもとても世界の自動車メーカーと太刀打ちできるほどの会社ではありませんでした。
その後、半世紀にも満たない年月で世界有数の企業になった原因は、会社全体が知恵を求めたからではないでしょうか。野心でも貪欲でもなく知恵を求めたから、カイゼンがくり返され、世界屈指の自動車メーカーになったのだと思います。
●企業にとって知恵を追う生き方とは、経営理念や経営哲学を追求する生き方であり、それが、業績面にも直結してくることを社員に教えるのが経営者の大切な仕事なのです。
業績や結果ではなく、知恵を求めましょう!
2010年05月21日(金)更新
家康の強運
なにしろ相手が悪い。川中島で上杉謙信と幾たびも交戦し、戦上手この上ない日本を代表する屈強武田軍団なのですから。
とにかく家康は馬上で脱糞しながらも、ほうほうの体で逃げ伸びました。
●家臣にも笑われるほどの惨めな姿で城に戻った若き家康は、そのあとが立派でした。この敗戦を教訓にするため、自分のみじめな姿を絵師に描かせているのです。トップとして、なかなかできることではありません。
★家康敗戦の絵 http://www.hamamatsu-navi.jp/shiro/history/002.html
●この敗戦が忘れられぬ家康は、後々になっても「負けを知らない人はよろしくない。私の場合、三方原で・・・」というようなことを周囲に語っています。
余談ながら、家康はこの敗戦でかえって有名になります。天下の“赤具足”武田軍団に真っ向から立ち向かった若武者がいると全国にその名を轟かせるわけですが、家康という男はこのころから強運の持ち主だったのでしょう。
●さて、「運」といえば先日、数人で居酒屋に行きました。その中にいた初対面の20代後半とおぼしき男性ビジネスマンが私に向かってこう言いました。
「武沢さんって、経営の秘訣をメルマガに書いてるの? へぇ、どんなこと書いてるの? オレが思うに、経営者ってまず運が大切だと思うの。こう見えてオレも相当なツキ男。だって付き合ってるやつら、みんな明るくて幸せそうだし、自分的にもまずまずハッピーだし。ま、不運そうなやつが寄って来たらこっちから逃げるけどね、ハハハ。この前も失敗している同級生から電話がかかってきたけど居留守使っちゃったもの。たしか、松下幸之助さんも運の良い人と付き合えみたいなこと、言ってるじゃん」
●残念ながら、この人は運というものについて表面的な理解しかしていないように思います。まずは、そのタメグチを改めることが大切でしょう。
ともかく、負けや失敗を周囲から排除するから運がよくなるのではない、と私は思うのです。どれだけ沢山の失敗や挫折、それに不遇というものを知っていたり、体験しているかということが、人間の深みにつながるのではいでしょうか。
●成功しか知らない人(そんな人はいないと思いますが)や、成功することしか興味がない人(こういう人は多い)は、他人の感情や心の痛みが理解できなくなりがちです。そういう経営者では良い会社は作れないと思います。
●哲学者ヴィトゲンシュタインは、「人間の偉大さを測る尺度は、その仕事に支払った犠牲の多寡である」と述べています。この言葉を引用しつつ、評論家の森本哲郎氏はこう語っています。「犠牲を支払えばだれでも後悔するだろう。しかし、その後悔が偉大さを生むのだ。だから、私のモットーは宮本武蔵とは逆である。『我、事において、常に後悔す』」。
●家康の大敗戦に学ぶように、私たちも負け、失敗、犠牲、後悔、不運、不遇といったものを避けるのではなく、それらの上に成功や偉大さが成り立っていると考えみてはどうでしょうか。
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ボードメンバープロフィール
武沢 信行氏
1954年生まれ。愛知県名古屋市在住の経営コンサルタント。中小企業の社長に圧倒的な人気を誇る日刊メールマガジン『がんばれ社長!今日のポイント』発行者(部数27,000)。メルマガ読者の交流会「非凡会」を全国展開するほか、2005年より中国でもメルマガを中国語で配信し、すでに16,000人の読者を集めている。名古屋本社の他、東京虎ノ門、中国上海市にも現地オフィスをもつ。著書に、『当たり前だけどわかっていない経営の教科書』(明日香出版社)などがある。
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